「ヌサンタラのフランス人(30)」(2020年09月08日) バタヴィア郊外の私有地はヨーロッパ人とたまに華人がオーナーになり、法外の地とされ て犯罪者に潜伏場所を提供した。私有地オーナーは自己の保安警備のためにジャゴアン jagoanを飼って私兵部隊を持てたが、バタヴィア都市部住民にとってそんなことが容易に できるわけがなく、かれらは行政が持つ保安機構に頼るしかなかった。つまり私有地に潜 伏する犯罪者たちにとって、バタヴィア都市部は私有地よりもはるかにおいしい稼ぎ場所 になっていたということだろう。したがって私有地制度はバタヴィア都市部の治安を悪化 させる根本要因のひとつだったと見ることもできる。 都市部で夜間、不審な人間の往来を取り締まるために、バタヴィア行政はプリブミに身分 証明書を持たせ、また夜間外出には必ず灯りを携帯するよう義務付けた。居住地区では夜 間警備のシステムが一般化し、見回り班はクントガンkentonganを必要に応じて叩きなが ら担当地区を見回った。 バタヴィア行政区域内にせよ郊外部にせよ、健康的で安全性も高いエリアは支配階層であ るヨーロッパ人やプリブミ貴族あるいは金持ち階層が占拠したため、一般のプリブミが住 むカンプンには湿地帯や地勢の劣る場所しか残されていなかった。流行病がはびこったと き、圧倒的な数でプリブミがその被害者になったのは単に人口が多かったためではない。 1864年のマラリアエピデミックで240人のヨーロッパ人が死んだとき、プリブミの 死者数は二倍にのぼっていた。 裕福な家庭では西洋料理とヌサンタラ料理の両方に巧みな料理人がもてはやされ、ヨーロ ッパ純血の御主人と欧亜混血のその妻、あるいは純プリブミであるニャイの舌を満足させ る能力は料理人の就職先を確保するのに役立った。インドネシア料理とされているレイス ターフェルRijsttafelが創造され、完成されて行ったのはこの19世紀である。 フランス人シャイエ=ベルJ. Chaillet-Bertは1907年にジャワ島を訪れて調査を行っ た。フランス人は植民地主義にあまり熱心でなかったために世界覇権競争に取り残されて いたのだが、スペインとポルトガル、イギリスとオランダが取り残した土地に遅ればせな がら植民地を作り始めたことから、当然ながら植民地経営の諸技術を会得しなければなら なくなった。そのための先達には事欠かない状況だったから、イギリスやオランダがどん なことをし、それが現地でどんな形を生み出しているのかを学んで参考にしようと、シャ イエ=ベルはアジアの各地を巡った。 オランダ政府植民地大臣もフランス一流の知識人が行う観察報告書に期待をかけていたた めだろう、ジャワ島でのかれの調査旅行はたいした障害に会わずに終始したようだ。折り しも日露戦争の結果、日本が世界覇権競争に強者としての姿を示しはじめた時期でもあり、 西欧列強によるアジアの植民地経営にダークホースが出現したことで現地にどのような影 響がおよぶかについて、シャイエ=ベルは考察を加えている。 シャイエ=ベルの記録には、ジャワ人のメンタリティがこのように分析されていた。 ジャワ人の礼儀作法については、それを実見したことのないひとを誤解に導くだろう。わ れわれのデモクラシーはその比較素材にできないのである。それは切り詰めた衣服や外し た仮面、あるいは色あせた洗練さといったわれわれのデモクラシーが持っている問題とは 異質の、精神の中にあって性格の基盤をなすものであり、自己の核に浸透し、魂に入り込 んでいるものであるためだ。退屈さ・性急さ・死・不安あるいは欲望ですら同様に、ジャ ワの名士は客人の前に決してそれらを示さない。悲哀や歓喜を表出するのに、かれはひと りきりになるときをひたすら待つ。[ 続く ]