「ポルトガル船隊の食糧政策(後)」(2020年09月09日)

ポルトガル人にとっては元々、植民地で地元の女と家庭を築き、そこでポルトガルが求め
ている商品作物と主食になる作物を生産することが勧められていたのである。こうしてポ
ルトガルの植民地には、自己のアイデンティティをポルトガル人と見なす混血児が続々と
誕生した。

転農した元兵士たちは植民地の要塞やポルトガル人コミュニティの周辺に住み、同じ土地
に住んで国王への務めを果たしているポルトガル人に食糧を供給した。その植民地が敵に
包囲されて味方との連絡が断たれても、防衛軍の食糧がすぐに枯渇するようなことにはな
らなかった。

ポルトガル人は植民地を設ける場所を、このようなシステムと連携させて選択した。たと
えばフローレス島が植民地に選択されたのは、そこが稲や豆類、ヤギやハチミツなど豊富
な食糧が得られることが大きい要因になっている。帰農する人間にとって、容易に食糧獲
得の成果が得られる土地の方が、不毛の土地よりありがたいのは当たり前の話だろう。

理論上はそうであっても、その選択が的確になされたかどうかはまた別問題になる。フロ
ーレス島ララントゥカLarantukaをポルトガル人は食糧獲得の便利な土地と評価してそこ
に町を作ったが、後からやってきたオランダ人は痩せ地であると判断してそこを奪おうと
しなかった。ポルトガル人にとっては幸運な結末だったかもしれない。


ポルトガル人はまた、植民地での商品作物と食糧の生産を原生種のものだけに限定しなか
った。かれらの航路の寄港地で手に入った商品作物と食糧の種や苗を別の土地に持ち込ん
で、そこで栽培してみることを励行した。

1536年から三年間マルクの行政長官を務めたアントニオ・ガウヴォンAntonio Galva
はブドウ・トマト・アヴォガド・キャッサバをマルクで栽培させている。マルク人はその
おかげで、それ以前の栄養不良状態が改善されたと言われている。

1545年ごろ、マルクのカピトゥン、ジョルドン・ドゥ・フレイタスJordao de Freitas
が地元民と戦闘状態に入ったとき、外部からの食糧補給が不可能になった。しかし要塞周
辺で食糧が栽培されていたため、かれらは苦難な状況を克服することができた。


ポルトガル人が行ったその食糧政策がかれらの航路沿いの各地各国にその名残を今もとど
めている。インドネシアに今も残っているポルトガル文化の影響の中には、庭に花を植え
ること、食べ物srikaya, bika, ketela, pastel、保存食acar、そして食器のフォーク
garpuはポルトガル語garfoがそのまま残されている。

その反対に、ポルトガル人が各地で知った食材・食品・調理法・味覚なども本国にもたら
されて、ポルトガル料理に影響を与えた。ポルトガル王国は各地に旅立って行った軍船が
帰国する際に、各地で見つけた珍しい動物と植物をリスボンに持ち帰ることを命じていた
のである。[ 完 ]