「インドネシア農民の祖先はだれ?(下)」(2020年09月11日)

一方、4千年前に台湾を出自とする東ルートの移住が起こった。かれらはオーストロネシ
ア語族と呼ばれ、そのDNA結合モチーフはフィリピンでメインを占めている。ところが、
オーストロネシア語がパプアの諸語を除くインドネシア諸種族語の大部分のルーツになっ
ているにもかかわらず、DNA結合モチーフはフィリピンのようになっていないのだ。

パンアジアSNPコンソーシアムThe Human Genome Organization (HUGO) Pan-Asian SNP 
Consortiumの2009年の研究によれば、ジャワ人のタイプはオーストロネシア型やモン
・ミエン型あるいはタイ・カダイ型Tai-Kadaiやインド型をしのいでオーストロアジア型
が50%を超えている。ジャワもスンダも同様であり、さらにはダヤッDayak、ムラユ
Melayu、バタッBatak、カロKaro、トラジャToraja、マンガライManggaraiの諸族もオース
トロアジア型であることが判明している。

台湾出自のオーストロネシア語族が見せている言語としての分布とヒトの分布が一致して
いないことについてソアレス氏は、言語は文化の産物であるという性質がその現象をもた
らしていることを示唆している。


さて、農耕人の移住が東と西の二波に分かれてインドネシア島嶼部にやってきたとして、
インドネシアに稲作をもたらしたのは、そのふたつのいったいどちらだったのだろうか?
そして稲作を携えてやってきた者たちが、狩猟=採集者である先住民を滅ぼしたのだろう
か?

東南アジアの各地で出土した数千年前の人骨を広く調査したケンブリッジ大学遺伝子学者
ヴィラスレウEske Willerslev氏の率いるチームがそのミステリーを解明した。マレーシ
ア・タイ・フィリピン・ベトナム・インドネシア・ラオスで発見された25の人骨化石の
遺伝子が調べられ、日本の古代人のものと比較された。Science誌2018年7月6日号
にその結果が公表されている。

その調査に参加した唯一のインドネシア人、メダン考古学センター長のクトゥッ・ウィラ
ッニャナ氏は、インドネシア出土の化石標本は中部アチェのロヤンウジュンカランLoyang 
Ujung Karangで見つかった2千年前のものだと語る。

25の調査対象のうちで最古のものは7,795年前のラオスのホアビンヒアンHoabin-
hian人で、かれらは4万4千年前から東南アジアの大陸部で狩猟=採集生活をしていた。
かれらがアンダマン諸島のオンゲOnge人、マレーシアのジェハイJehai人、日本の伊川津
縄文人の祖先にあたる。パプア人やオーストラリアアボリジンの祖先であるアフリカ出自
の移住集団Out of Africaの初期のものからその三人種が枝分かれした。

25の古代人の人骨化石標本の遺伝子調査から、東南アジアの諸種族には狩猟=採集者と
農耕者の遺伝子が入り混じっていることが明らかになったのである。そこから、狩猟=採
集者と農耕者が対立し合い、一方が一方を駆逐したのではなかったことが帰結として描き
出された。


中国南部から東南アジアへの移住は、稲やキビなどの穀物栽培が最初に興った揚子江と黄
河にはさまれた地域を出自にしている。穀物栽培の発生は9千年から5千5百年前で、水
稲耕作の開始は4千5百年前と見られている。

かれら農耕人の一部が台湾へ移住して、その後のオーストロネシア語族の移住へとつなが
っていく。別のグループは南に向かって移住し、ホアビンヒアン系の狩猟=採集者と混じ
り合いながら農耕文化を伝えて行った。きっと最初は畑作方式だったのだろう。

その4千〜4千5百年前の移住の波から数千年後に、再び北から南への移住の波が起こっ
た。2千年前にもっと優れた農耕技術を携えた集団が東南アジアにやってきたのである。
かれらが持って来たのは水稲耕作の技術だった。東南アジアの人種構造がたいへん多様で
複雑な様相を呈しているのは、そんな過去の歴史がもたらしたものだったようだ。

たとえばカリマンタンの土着人種は、遺伝子型がオーストロネシア38%、オーストロア
ジア59%、先住の狩猟=採集者型3%となっている。現代のプナンPunan族社会は狩猟
=採集生活から農耕生活への変化をわれわれに示している。かれらカリマンタン最後の狩
猟=採集種族は昔から定住せずにジャングルの中を周回する暮らしを行っていた。かれら
が定住して農耕生活に入ったのは1960年代である。かれらは近隣に住む他のダヤッ族
から稲の苗を分けてもらい、耕作の方法を教えてもらいながら農耕人への道を現在歩んで
いる。それがわれわれに、何千年も昔に起こった様子を想像させてくれるのである。
[ 完 ]