「ヌサンタラのフランス人(終)」(2020年09月16日)

ところがオランダだけはそんな障害から免れている。オランダ人は欲するがままに、何で
も行うことができる。かれらは三百年にわたってジャワを支配してきた。かれらの財政は
長期間繁栄し、今でも満足できる状況にある。オランダ本国は教会の支配を受けない。

イスラムを信仰する原住民は科学に心惑わすことがない。教育を受けた唯一の階層はオラ
ンダ人と徹底的な抗争をしたことのない指導者層であり、争いどころか、かれらは友好的
な姿勢を示す。


ダンデルスはジャワ人への教育構想を抱いた。1808年に出された決定書には、ジャワ
島の各地方行政長官は青年層に対する社会教育・慣習・法・宗教知識に留意し、必要な学
校を建設し、有能な教員を職に就かせるようにという指示が出されている。しかしそれは
紙に書かれた命令でしかなく、そして紙の上での命令にとどまった。各地方行政長官はそ
の命令にまったく意を払わず、その命令に拘束されていないように振舞ったのが実態だ。
民衆への教育事業を本気で手掛けることがかれらにできただろうか?

教員をどこで探せばよいのか?学校運営をどのようにさせればよいのか?1808年の決
定書の内容はいまだに紙の上から地面に降りてこない。1818年、1820年、182
7年、1830年・・・同じことは何度も繰り返されている。地方行政長官にできること
はなく、かれらは何もしない。1849年にジャワ島にあった政府の学校はわずか二軒だ
けで、その主導性で名を知られた行政長官がいた地方でのみ起こったことだ。ジュパラと
パスルアンである。1851年になっても、ジャワ島内の政府の学校は5軒にしかならな
かった。

それらの学校はどんな様子だったのか?教育内容にはクオリティがなく、生徒たちは学習
意欲を持たず、教員たちは教育指導能力が不十分だった。真の意味における学校というも
のはひとつもなかったということだ。

子供たちは行政長官邸に定期的に集められ、教員や知識人父兄、あるいは長官の友人が子
供に本を読み聞かせたり、あるいはアルクルアンの内容を説明したりした。その集まりは
長官の私費で営まれた。長官の私費は、建てた学校の営繕費にも使われた。住民も学校維
持のための会費を負担した。生徒は金を納めなくてよいというのが原則だ。金持ちの子供
は教員にプレゼントをあげた。貧しい子供たちは教員のために手伝い仕事をした。

その動きは徐々に進展して、教育現場に広がりが見られるようになる。1852年には1
5校になり、1865年には58校に増えた。国がそれらの学校に補助金を与え、教員雇
用の責任を持つようになる。1873年から1882年までの間にジャワで111、外島
で138、合計249の新設校がオープンし、1884年に政府の学校は512校になっ
た。しかしジャワ島の経済状況の悪化から後退現象が起こり、1896年の学校数は40
7に減少した。

その407の内訳は政府の運営する学校205、生徒数37,103、政府から補助金を
受けている学校116、生徒数14,212、補助金を受けていない学校86、生徒数7
1,176。東インドの子供たちの何パーセントが教育を受ける機会を得ているのだろう
か?


最後にシャイエ=ベルは次の文章でこの報告書を締めくくった。
オランダ政庁はあらゆるものを監視しようとしている。公的通商から私的通商、原住民の
商売から植民地行政に至るまで。ヨーロッパから来た行政官僚たちは瑣末事の中に溺れて
おり、祝福を忘れたかのような見方で問題を眺める。植民地の地方トップ層は自分の用事
を邪魔する監視を受け入れることができず、また問題解決をややこしくするだけの中央集
権を嫌悪している。

原住民の大半も、政庁がかれらに与えている保護をありがたがらない。いまだに継続して
いるファン・デン・ボシュ制度が生み出した高物価がかれらの懐を軽くすることへの不満
の方を強く握りしめている。

原住民貴族層も先祖伝来の諸権利が取り上げられたことで不満をかこっているように見え
る。地方部の県令たちだけは、かれらの必需品を部下たちが満たしているために今のとこ
ろ満足しているようだ。しかしその部下たちが今の県令に成り代わって県の統治者になろ
うと考えて動き出している現状から、県令は部下が自分の競争相手に変化しつつある状況
の進展を不安の眼で眺めるようになっている。現県令たちの仕事がこれまでのように安楽
に行えなくなる不安、そして自分の地位が動揺していく不安・・・・[ 完 ]