「台湾のジャワ煉瓦(2)」(2020年09月22日)

ポルトガルが1553年以来マカオに取りついて中国貿易を行い、明はマカオで徴税を行
っていた。台湾に明の徴税機構の手が届いていないことを見て取ったスペイン人は、中国
本土に拠点を構えるよりは台湾に領土を置く方がはるかに有利であるという考えを持って
いたようだ。

ヨーロッパでオランダ人の独立回復闘争にかみつかれていたスペイン人は、1599年に
オランダ船がフィリピン海域に出現したことに驚かされた。オランダは1622年に澎湖
島を奪取して要塞を構築したが明の強力な反撃に敗れて和平し、台湾に拠点を移した。こ
こはやめて台湾にしろと明側に言われた、という話になっている。

台湾はオランダにとって日本航路の中継港を置くための好所に位置している一方、スペイ
ンにとってオランダの台湾進出は日本航路を切断することになるおそれが高く、そんなこ
とになれば大損害を蒙る。それを防ぐには1624年に台湾南部に基地を置いたオランダ
に対して、台湾北部にスペインの拠点を設けるのが最上の戦略と判断された。

1626年、スペイン船隊は基隆社寮Keelung Sheliao島(現在の和平島)に上陸してそ
こを占領した。更に陽明山の西側にある滬尾Huweiをも占領し、基隆には聖薩爾瓦多San 
Salvador要塞、滬尾(現在の台北淡水)には聖多明哥Santo Domingo要塞を設けた。聖多
明哥要塞は淡水紅毛城という名で観光遺跡になっている。

かれらは滬尾にカトリック教会を建てた。そこにはスペイン人神父のほかに、日本から逃
れて来たカトリック信徒もすくなからずいたそうだ。

台湾北部に基地を構えたスペイン人は、徐々に内陸に向かって支配の手を伸ばして行く。
金山Jinshanと萬里Wanli地区に支配の領域が広がり、また西方は淡水河をさかのぼって台
北盆地の征服に向かった。スペイン人は台湾で硫黄と鹿皮を入手して輸出した。


そのころヨーロッパには、台湾の島の東側にある多羅滿Duo Laimanで豊富な金銀が採取さ
れており、住民は黄金にまみれた暮らしをしているという噂が広まっていた。ジパング黄
金郷の話はあちこちに飛び火していたようだ。マニラから調査隊が現在の花蓮立霧溪口
Hualien Liwu Xikou地区に派遣されたが、原住民に皆殺しにされかかった。

台湾黄金郷譚は本国で根強かったものの、マニラの総督庁はあまり関心を示さず、黄金郷
探査は継続しなかった。むしろ台湾南部で活発に動いているオランダ人の去就のほうが大
問題であり、マニラも台湾の要塞も通商保全のための軍事戦略をはるかに重視していた。

だが本国の経済状況の悪化のために台湾に設けた基地への補給が続かず、現地の自給自足
への努力を強いたものの管理運営の失敗と疫病の流行が基地の維持を不可能にした。


南にいたオランダ人は北にいるスペイン人が目の上のたんこぶになり、1642年に軍船
隊を進発させて基隆に攻撃を加えたところ、士気の落ちていたスペイン人はあっさりと屈
服し、基地をたたんでマニラに引き上げた。

スペイン人を追い払った後、オランダ人は台北盆地を中心に北部地域をも支配下に置き、
ほぼ台湾島の全域を統治した。それからのおよそ十年間が台湾VOCにとっての黄金時代
になったようだ。しかし黄金期を過ぎればあとは没落が待っているというのが歴史の常道
なのである。[ 続く ]