「食糧危機(2)」(2020年09月22日) 他のジャワ島北岸港湾都市国家と比べてバンテン王国は、設立の当初から農業国家構想が 大きい位置を占めていた。ドゥマッDemakのような商業国家構想とは性格を異にしている。 その結果、バンテンの米生産は豊かな食糧を王国民にもたらし、通商と一緒になって繁栄 を築き上げていたのである。 米のストックが減少して来ると、米価格は一年のうちに何回も倍増を繰り返した。年初に およそ20トンの米は20レアルだったというのに、年半ばには50レアルに達し、年末 には400レアルにまで高騰した。 この米不足は凶作によるものであり、その時期の北西風が雨を運んでこなかったのが原因 だと言われている。収穫は場所によって爬行的になり、おまけに田ネズミが残された少な い稲に群がって行ったから、状況は悲惨さを増した。 1676年、バンテン王国は米蔵が空になったと報告されている。マタラム王国から購入 しようとしても、マタラムも飢饉に襲われていたから何の助けもできなかった。バンテン 王国は船を一隻シアムに送って米を買付させた。イギリス船がベンガルから米を運んでき た。 次の収穫期になってやっとジャワ島のいくつかの町に米が姿を現わした。だが米価は上が ったままで、鎮静化する気配はなかった。ジャワ島全土で食糧危機は1677から78年 まで継続したのである。 バンテンのスルタンは米生産が回復して安定するよう、全領民に対して稲作のための祭祀 を行うことを命じた。雨が降ることを祈って6日間断食と祈祷を続けなければならない。 1679年、米蔵にやっと米が満ちるようになった。 ヨーロッパ人が書いたそのころのバンテンの状況は、バンテンには飢饉が起こっていない という内容だったが、米を豊富に持ち、商港に入って来る船への食糧供給も万全で、米の 輸出さえ行っていたバンテンが陥ったその食糧危機の苦境は、先祖たちが想像もしなかっ たことだったにちがいあるまい。 < マタラム > マタラム王国は何度も食糧危機に襲われている。そのうちのひとつでは、雨が降らなかっ たために凶作が起こったと記されている。そのため、マタラムは病気の巣窟になった。皮 膚病者と乞食が路上にあふれ、かれらは路上に倒れて死に、あるいは川に死体が流れて、 街中には死臭が立ち込めた。王宮の役人の中にも、死んだ者が少なくない。日照りが続い て乾燥しきったために、マタラムは居住に適さないという噂が広がった。 食糧危機はそのあとで起こった。1677年から1703年まで王位に就いたアマンクラ ッAmangkurat二世は、たくさんの兵士が熱病にかかったために苦難に陥ったと史書に書か れている。食糧価格は高騰し、カルトスロKartasuraの兵士や村落部の庶民は食べ物が欠 乏した。王はその状況を前にして悲嘆に陥り、思いは混乱した。王は弟のプグルPuger王 子を呼び、この事態を改善させるのに協力するよう命じた。 「われわれの国が危殆に瀕しているため、汝を呼んだ。食糧価格が高騰しており、それが 起これば為政者は世の中から侮蔑される。末端兵士たちは困窮していて、ガドゥンの根を 食べている。この状況が回復されなければ、カルトスロの玉座に就く者は怨嗟の声を浴び るだろう。もし神がカルトスロに米価が下がるよう助けを与えないのなら、余はこの王国 を去るつもりだ。余はあの兵士たちを目にするのにしのびない。」 「スルタン陛下は退位してはなりません。」とプグル王子は兄に言う。[ 続く ]