「食糧危機(3)」(2020年09月23日) 自分が王宮を出て、世の中で何が起こっているのかを確かめてくるとスルタンに請け合っ た王子は家に帰って庶民の衣服に着替え、サントリsantriに身をやつして王都のあちこち を訪れた。高位の貴人ほどたくさんの従者に囲まれて暮らしているジャワで、王子はひと りの従者も連れずに単独行を行った。つまり、警護の者すら付かなかったということだ。 街中の見回りを行っている警備兵すら、食べ物が値上がりしたために米をパサルで恵んで もらっているサントリのひとりだとかれを見た。まさかスルタンの弟君であるなどとは想 像もしなかった。 世の中では米が消え失せて芋やガドゥンがその代替品になっていることを王子はその眼で 見た。末端庶民は苦難の下で喘いでいる。王子は祈り続けるほかに何もできなかった。そ して終に王子はその救済方法に思い当たったのである。ジャワ年代記Babad Tanah Jawiは こう記している。 王子は庶民の手が届く価格を米価に定めて、王都のすべてのパサルにその価格で販売せよ と命じた。40日後王子のもとに届いた報告は、米価が昔の状態に戻り、民衆の苦難は消 え、カルトスロは息を吹き返したことを告げていた。 < 日本軍政 > 1942年から45年までの日本軍政期にインドネシアの人口は7千万人だった。太平洋 戦争が開始された時、オランダは日本に宣戦を布告し、東インド植民地政庁は日本軍の東 インド進攻を予想して、東インドの資産で敵に利用される可能性のあるものを廃棄し破壊 した。インドネシア住民が蒙るべき物資欠乏はそのとき既に種が蒔かれていたことになる。 予想通りやってきた日本軍は軍政を敷いてインドネシアの経済活動を支配した。東インド 植民地経済の根幹を握っていたオランダその他のヨーロッパ人の会社や事業体は、同盟国 のドイツとイタリアを除いてすべてが閉鎖された。ヨーロッパ人と同様に経済末端まで握 っていた中国系の会社や事業体も、やはり敵国であるために閉鎖された。 生産現場に携わっているのがプリブミであっても、流通と小売りの大半が仕事をしなくな ったのだから、世の中に出回っていた品物が影をひそめたのも当然だ。もちろん日本軍は その影響をカバーしようとしたが、一元的に成し遂げられるようなものでないのは明らか だろう。 更に加えて、東南アジアから太平洋に幅広く拡散した戦線のための食糧確保の重責が、戦 争開始前からジャワ島にあてこまれていたのだ。農業生産量が飛躍的に増大しなければ、 これまで通り自分も腹いっぱい食べた上に日本軍の要求に応じることなどできるわけがな い。インドネシアに食糧欠乏が起こる条件は二重三重にしつらえられていたのである。 その上で、日本軍政はインドネシア国民にトウゴマjarakを植えさせた。トウゴマの実か ら絞られた油を航空機・船舶・自動車・重機などの燃料や潤滑油にするためだ。そのエネ ルギーが米増産の方に注がれていればまた違った結果になったかもしれないが、日本人は 二兎を追う愚を犯さなかった。たとえ米の増産という掛け声はかけても、組織でそれに取 り掛かる対象としてはトウゴマの方が優先された。[ 続く ]