「台湾のジャワ煉瓦(4)」(2020年09月24日)

1970年代に空路ジャカルタのクマヨラン空港にはじめて到着した時、眼下に見える街
並みの赤屋根(というより正確にはオレンジ色だろうか)の並びに目を奪われた体験があ
る。わたしにとってはそれがジャカルタの第一印象だった。粘土を型成形して焼成された
瓦やレンガはそのままだと赤味がかる。たいていの建物に使われている赤瓦がジャカルタ
の街の色のイメージ作りの一端を担っているその現象を面白いものだと感じた。


インドネシア語でレンガはbatu bataであり、赤レンガはbata merahと言う。インドネシ
アでは古代から恒久建造物にバタメラを使うことは普通に行われていた。現存しているチ
ャンディの中でバタメラが使われているものは少なくない。

スマトラのチャンディバハルCandi Bahar、スリウィジャヤ時代のチャンディ群ムアラタ
クスMuara Takus、ジャワではカラワンのチャンディバトゥジャヤCandi Batujaya、マグ
ランのチャンディレッノCandi Retno、パティのチャンディカイェンCandi Kayen、プロボ
リンゴのチャンディジャブンCandi Jabung、トロウランにはチャンディティクスCandi 
Tikus、チャンディブラフCandi Brahu、およびいくつかの大門などがある。他にも、オラ
ンダ時代以前の宮殿や要塞など巨大建造物にも使われているし、ましてやオランダ時代に
建てられた建造物、中でも要塞にはバタメラがふんだんに使われている。

あちこちに散在しているチャンディにバタメラが使われていることは、バタメラ製造工房
があちこちにあったことをうかがわせるものだ。現在でも赤瓦や赤レンガの製造工場が各
地に存在していることと無縁ではないだろう。


bataという言葉を聞くと、インドネシアで有名な靴メーカーを思い出す人がいるかもしれ
ない。あるいはジャカルタのカリバタKalibata英雄墓地を思い浮かべるだろうか。靴メー
カーbataの工場がKalibata地区にあるという話になってくると、それらを関連付けずには
いられないひとも出現するだろう。

靴メーカーのbataはチェコ人アントニオ・バタが1894年にチェコで興した会社だ。イ
ンドネシアでの操業開始は1839年(1831年説もある)で、カリバタ地区に工場を
建てて生産を始めた。

現在のカリバタ地区を通っている川はチリウン川の一部なのだが、そこがカリバタと呼ば
れるようになった由来の中に、バタの工場があったのでその名が付けられたというものも
ある。別の説では、その地区に古い時代からレンガ製造場があり、川にたくさんのバタが
転がっていたためバタの川つまりKalibataという名称が付けられていたというもの。後者
の説に従うなら、バタ靴工場は同じ名称が地名になっている場所を選んで工場を建てたこ
とになる。さて、どちらが卵でどちらがニワトリなのか?

後者の説のバタ製造場はバタメラでなく日干しのバタコbatakoを作っていたようだ。昔か
らインドネシアでは、重い大量の貨物は船で運ぶのが常識で、チリウン川は貨物輸送のた
めの水路として利用されてきた。舟がパクアンとスンダクラパ、バタヴィアとバイテンゾ
ルフ間を往来し、上流からは竹の輸送のために筏が組まれてチリウン川を下って来た。バ
タコが岸辺から舟に積み込まれるときに岸辺に転がり落ちたものがたくさんあったのかも
しれない。[ 続く ]