「台湾のジャワ煉瓦(終)」(2020年09月25日)

オランダが大員に基地を設けてVOCの日本航路と中国航路の中継基地にしたとき、そこ
が台湾の国際世界に開かれた扉になった。VOCのアジア通商ネットワークの結節のひと
つになったことで、VOC扱い商品である中国産の絹・生糸や陶器あるいは日本産鉱物資
源の中継倉庫の役割もゼーランディア要塞が担うことになり、陶器や砂糖がバタヴィアに、
絹布・生糸や砂糖や鹿皮が日本に運ばれて行った。

オランダ人は最初大員を占領してから、近隣の原住民諸種族を段々と服属させていった。
大員の町には市制を敷いて漢人を含む原住民の統治を行い、服属させた周辺諸種族は年一
回大員に集めて年間活動報告をそれぞれに行わせ、西洋式民生を目指す原住民統治を展開
して行った。その中にはキリスト教の布教や学校教育など文明化のための活動が含まれて
おり、学校へ学びに来る者には米や衣服が与えられた。原住民はまたアルファベット文字
の使用も奨励された。

VOCは最終的に台湾島南半分の海岸地帯を幅広く統治下に置き、あたかもそこに植民地
を形成したような姿を見せた。スペイン人を北部から追い払ったあとは、その地域をも掌
握したので、台湾島沿岸部の大部分が台湾VOCの支配下に落ちたと言えそうだ。もちろ
ん、内陸山岳部は違う。

会社事業としての領土経営は植民のないものになるのが必定であり、それを植民地と呼ぶ
べきかどうかの疑問が生じる。VOCの地域支配を植民地と呼ばないひとびとの根拠がそ
こにある。


オランダ人による統治が開始される以前から、台湾には漢人や日本人が住んでいた。オラ
ンダ人はかれら来住者に人頭税をかけ、さまざまな経済活動にも課税した。オランダ人は
また漢人に土地開拓と農作業を行うよう仕向け、それを成功させるために漢人への優遇策
を執った。そのためにバタヴィア華人社会の指導者のひとり蘇鳴崗Su Minggangを担ぎ出
して台湾で采配を振らせることまでした。それが台湾で行われた土地開拓プロジェクトの
事始めにあたる。そこで栽培させたのは米と茶そしてサトウキビで、砂糖は台湾からの有
力な輸出産品となり、ペルシャや日本に運ばれて行った。

だが、台湾に渡って来る漢人の数はとどまる所を知らなかった。中国本土側の状況がそれ
に一役買っていたことは言うまでもあるまい。その波を抑えようとして、オランダ人は手
のひらを反すかのごとく漢人に対する締め付けを開始する。土地購入禁止、地所から離れ
ることを禁止、武器所有の禁止、集会の禁止、原住民女性と結婚した漢人のキリスト教入
信強要、等々。

そうして1652年に郭懷一の率いる漢人の武装蜂起を招く結果となった。VOC軍と2
千人の原住民部隊がこの漢人の反乱を鎮圧し、関わった男たちは皆殺しにされた。その数
は一万人を超えたと言われている。それが漢人の胸に傷跡を残さないわけがない。

VOCは明に取って代わりつつある満州族の清に協調姿勢を示し、それまで保っていた明
との関係を断ってしまう。漢人の反オランダ意識を高揚させる成り行きが、しつらえられ
たかのようにそこに備わっていた。台湾VOCの崩壊が近付きつつあった。

1661年に明を奉じて「抗清復明」の旗を掲げた漢人鄭成功の指揮する反オランダ戦争
に漢人は続々と参集し、各地でオランダ人が攻撃され、1662年には最後の頼みの綱だ
ったゼーランディア要塞も陥落した。VOCは台湾の足場を失って撤退してしまう。VO
Cの台湾支配はこうして1662年に幕を閉じたのである。[ 完 ]