「黒いオランダ人(1)」(2020年09月26日)

外人部隊というのはフランスとスペインにある。どちらもその国軍の中に設けられた外国
人志願兵の部隊であり、陸軍機構の中に置かれた軍隊であって、外国人兵の集団であると
いう点で区別されているにすぎない。陸軍組織が軍事行動を起こす場合に、戦略要綱の一
コマとして使われる点において国民部隊との違いがあるとは思えない。大きく違っている
のは兵員の資質であり、徴兵されて集まって来ている国民部隊に比べて戦争を自己存在の
場として行動する戦争の犬たちの戦闘力は大幅に異なっているため、軍上層部にとって重
宝な部隊であることは明白だ。

フランスの大詩人アルチュール・ランボーが外人部隊に入ったという表現をされることが
あるが、かれが入ったのはオランダ東インド植民地軍という正規の軍隊であり、東インド
植民地軍の中に外人部隊という類のものは存在しなかった。そうでなくて、植民地軍その
ものが外人部隊の様相を呈していたということだ。

かつてオランダ本国の規定には、兵役義務下の国民を植民地に派兵することを禁じる条項
があったために、東インド植民地はオランダ国軍に頼ることができず、自らの軍隊を持た
ざるを得なかった。オランダ国民で国軍の兵役を勤めていない者や軍を退役した者は植民
地軍に入ることができたが、そのような条件下に大勢のオランダ人を徴募することは難し
く、おのずと外国人を募集する結果になってしまったためにプロシャ・スイス・フランス
あるいは北欧諸国などの兵士がメインを占めた。また人数をそろえるためには植民地原住
民を募集せざるを得ず、おまけにヨーロッパ以外の地からも兵員志願者を受け入れたため
に、東インド植民地軍というのはたいへんな多民族軍隊の形を取った。要するに軍隊自身
が世界諸民族の混成部隊だったということだ。外見は似たようなものであっても、フラン
スやスペインの外人部隊とはまるで趣が違っていることが分かるだろう。

最近の実例としては、既に歴史から消えてしまった感のあるダエシュ(ISIS)軍が思
い浮かぶ。たとえ中核がバグダーディーに従った旧イラク軍の一部だったとしても、かれ
らは世界中から戦闘要員を受け入れて軍隊を作り、その陣容で戦争を行った。東インド植
民地軍と同じ程度もしくはそれ以上のバラエティに富んだ多国籍軍隊だったのは間違いあ
るまい。ダエシュ軍を単なるテロリストが集まった烏合の衆という目で眺めると、本質を
見損なうかもしれない。体験者の話では、確かに軍隊の形が取られていたそうだから。



植民地時代に東インドプリブミの間で黒いオランダ人Belanda hitamという言葉が使われ
ていた。オランダ語はzwarte Hollandersで、オランダ人自身もその言葉を使っていたよ
うだ。ジャワ人はロンドイレンLanda irengと呼んだ。黒いのだから黒人を指しており、
この黒いオランダ人は東インド植民地軍の中にいた。

黒人の東インド植民地軍兵士はアフリカのガーナやブルキナファソから来たひとびとがメ
インを占めた。アフリカのゴールドコーストという奴隷貿易で名を高めた地方にオランダ
も拠点を置いて植民地経営を行ったが、そこはガーナ、ブルキナファソそしてサハラ南部
交易路を支配したアシャンティAshanti王国の領域であり、オランダ人は東インドのため
にその地で志願兵を募集してジャワ島に派遣した。

植民地原住民が宗主国の国民と理解されるのは当り前のことであり、たとえどのように差
別されようとも外国人ではないという点に基本コンセプトが置かれる。戦前の日本を見て
みるがいい。まったく同じコンセプトが貫かれていることが見えて来るだろう。

他のオランダ植民地から来た人間はオランダ人であるというのがその論理に従った物の見
方なのだから、黒人であってもオランダ人と呼ぶのは理にかなっている。ただし白人のオ
ランダ人と区別するために黒いという形容詞が添えられただけなのだが、そこに侮蔑感が
盛り込まれたのは当然の成り行きだったにちがいあるまい。


東インド植民地軍にアフリカ人が加わるようになったのは、1825〜30年にジャワで
起こったディポヌゴロ戦争が原因だったようだ。1831年に開始されたアフリカ人の東
インド植民地軍への導入は1872年までに3,085人を数えた。長期に渡ったディポ
ヌゴロ戦争で植民地軍の兵員数に8千人という大きな損耗を出したことことから、その補
充が急務とされたのは言うまでもないが、ジャワ人を使ってその補充を行うのに当局は二
の足を踏んだにちがいあるまい。反乱軍の生き残りを植民地軍兵士にしてしまうリスクに
はだれもが怖気をふるうだろう。ディポヌゴロの部下たちがゲリラ攻撃をその後も継続し
たのだから、ジャワ人を新兵に徴用すれば何が起こるか分からない。[ 続く ]