「黒いオランダ人(2)」(2020年09月27日)

アフリカのゴールドコーストで行われた最初のリクルートでは、軍務期間は6年間で、契
約満了時には再契約・帰国・ジャワに留まるの三択が自由に選べることになっていた。そ
のときに契約したのは44人で、現地オランダ軍での勤務経験を持つ者、借金返済のため
に契約金を望んだ者、そして奴隷たちがいたそうだ。

奴隷たちに関しては、オランダ人は黒人奴隷を自由人にし、その代償として東インド植民
地軍への志願書にサインさせたという話もある。かれらはひとり百フルデンを与えられ、
ガーナの商港エルミナElminaからジャワに向かうオランダ船に乗って東インドへやってき
た。その後のリクルートでは、軍務期間は15年に延ばされている。

東インドに到着後軍事訓練を受け、そのあと各地に派兵されて戦闘に従事した。ガーナ政
府はその過去の歴史のつながりを示すために、2003年エルミナにエルミナジャワ博物
館Elmina-Java Museumをオープンしている。


黒人兵部隊は植民地軍の出動に従って、スマトラ・カリマンタン・スラウェシ・バリ・テ
ィモールそして最も長期の戦争になったアチェにもその姿を見せた。黒人兵士がはじめて
ヌサンタラの地でプリブミを相手に戦ったのは1832年のスマトラ島南西部における戦
争であり、最後の黒人部隊のお勤めはアチェ戦争になった。アチェでは、植民地軍の本部
が置かれたプナヨンPeunayong地区の警備をマンクヌガラ部隊Legiun Mangkunegaranと黒
人分隊が一緒に担当した。

アチェ戦争でアチェスルタン軍が敗北し、スルタン側が降伏したのは1904年だったも
のの、民衆のゲリラ抵抗はずっと後まで続いた。1892年には東インド植民地軍に黒人
兵が54人いたという記録もある。

言わずもがなの脱走兵も出た。一番古い記録は1838年4月4日に起こったもので、バ
タヴィア防衛軍第1歩兵大隊黒人兵9人が脱走した。次いで7月にはスラバヤ第10歩兵
大隊から10人が脱走している。

植民地軍の中ではオランダ語と俗化したムラユ語bahasa Melayu pasarが公用語になって
おり、一方の黒人兵たちは出身部族で言語が異なっているという複雑な要素がコミュニケ
ーションに難しい問題を投げかけていた。また、軍の中枢を握っているのは上から下まで
白人であり、ただでさえ人種差別の激しかったオランダ人を中心にする白人社会が黒人差
別を当たり前のように行っていたことと、それを身近に見てそれに倣ったプリブミ社会が
問題を悪化させた可能性は否定できまい。

一般的に黒人兵の評価は、不衛生・不健康・軍事教練の習熟が遅い・怠惰・乱暴・短気・
不服従・反抗的などといったものだったが、実態は兵士として優れた要素を持っていなか
ったわけでもない。酒酔いを嫌い、疲れを知らず、勇敢だったとのことだ。しかしポジテ
ィブな評価を大っぴらに語る者はいなかったようだ。


黒人兵にも軍靴が支給され、勤務中の着用が命じられた。中にはそれを誇りに感じて、四
六時中軍靴を履いていた者もいたそうだ。しかしいつまでも慣れないで裸足でいる方を好
む者もいたのは、プリブミ兵士と同様だ。

兵士たちの中にアシャンティ王国のクワシ・ボーカイKwasi Boakye王子がいたという話が
ある。王子だから積極的に志願したに違いあるまい。かれはデルフトの大学で工学士資格
を得ており、自分はオランダ人と同じだと思っていたようだが、オランダ人社会はそう甘
くなかった。ヨーロッパ時代にはドイツで画家ラデン・サレと出会っているそうだ。

植民地時代の作家で東インド植民地軍の勤務経験を持ち、日本軍の抑留キャンプで生涯を
閉じたヴィレム・ヴァルラーフェンWillem Walravenはジャワでのアフリカ人の生活につ
いての短編を書き残している。他にも、黒人兵やアフリカ人が登場する小説は植民地時代
にたくさんあった。面白いのは、スンダ地方の人形劇ワヤンゴレwayang golekのキャラク
ターの中に真っ黒な肌をして軍人の制服を着ている人形がアムステルダムのトロペンミュ
ージアムに保存されていることだ。[ 続く ]