「黒いオランダ人(3)」(2020年09月28日)

かれら黒人兵もインドネシア女性を妻にして家庭を築いた。東インド植民地軍兵士の兵舎
の中での暮らしは、拙作「ニャイ〜植民地の性支配」の中に描かれている。かれらは兵舎
の中で同僚兵士たちと一緒に暮らしながら、プリブミ女性をニャイにして性生活家庭生活
を営んだ。黒人兵がその風習に倣わないはずがなく、かれらもニャイを持ち、子供を作っ
た。男の子は兵士になり、女の子は兵舎にいる他の男のニャイになった。他の男というの
はたいていが黒人とジャワの混血だったようだ。


植民地政庁は1828年ヴェルテフレーデンに学校を作り、最初は純血および混血のヨー
ロッパ人子弟を生徒にしたが、そのうちに人種の枠が外されてプリブミも黒人混血児も生
徒になった。1899年にはプリブミ生徒356人、アフリカ人とマルク人生徒62人が
いたとのことだ。1844年には中部ジャワのプルウォレジョのクドンクボKedungkeboに
軍人養成学校が開校し、1855年にゴンボンGombongに移された。

黒人兵で軍務期間を終えたひとびとは、兵舎から出てプリブミ社会に混じって行った。と
ころが退役黒人が増加したことで、行政が人種隔離を行った。バグレンBagelenのレシデ
ンが黒人退役者たちに専用居住区を指定し、アフリカ部落を作らせたのである。レシデン
はその理由を、アフリカ人とジャワ人は性質や言語があまりにも違っており、その間で誤
解が生じるのを避けるためである、と述べている。この措置は、何らかの必要性が生じて
植民地軍が退役黒人兵を招集する際、大きい効果を発揮するものだ。

1859年8月20日付けで総督府は決定書第25号を出し、アフリカ人退役軍人のため
に居留区を設けて住まわせることを命じている。プルウォレジョPurworejoのパグンジュ
ルトゥガPagen Djoeroetengah村にかれらのための1,150平米の土地が用意され、そ
こで家を建てたり、農耕や他の活動を行うことの自由が与えられた。こうしてプルウォレ
ジョにアフリカ部落が誕生したのである。

プルウォレジョには植民地軍基地も設けられて、近隣の諸地域ににらみを利かせた。なに
しろディポヌゴロ反乱の震源地のひとつバグレンのすぐ近くなのである。そこに黒人兵部
隊三個中隊が常駐しているとなれば、ジャワ人反乱者も頭を冷やすだろう。しかし184
0年に黒人兵部隊が反乱を起こしたときには、植民地軍上層部の方が肝を冷やすことにな
った。


アフリカ人コミュニティはサラティガSalatigaやスマランSemarangにもできた。20世紀
前半の終わりごろには、既に第3〜第4世代の子孫がその住民になっていた。植民地軍た
たき上げでインドネシア国軍の礎石を築いたプルウォレジョ出身のウリップ・スモハルジ
ョOerip Soemohardjo将軍は1910年ごろの子供時代を回想して、こんな話を物語って
いる。

アフリカ部落の子供たちはオランダ語を訛りなしにしゃべるので、わたしのように訛りが
ある者を馬鹿にした。わたしはある夜仲間たちを集めてアフリカ部落に乗り込み、「黒ロ
ンドの真っ黒け、デカッ鼻の鼻声」という内容のジャワ語を大声で怒鳴り散らした。
翌日、わたしの父が村長に呼び出された。役場へ行くと数人のアフリカ人がいて、お前の
息子がわれわれを侮蔑したと怒っている。父はかれらと約束した。息子にたっぷり訓戒を
与えるから、あんた方の息子もわたしの息子を馬鹿にしないようにしてほしい。いざこざ
はそれで終わった。

アフリカ部落は現在プルウォレジョのクドンクボ地区になっていて、ガンアフリカGang 
Afrika I - IIという名称で残されている。今でもわれわれはそこで、アフリカ人が使っ
ていた昔ながらのオランダ風家屋をたくさん目にすることができる。

日本軍進攻の際にアフリカ系のひとびとは白人と同じように捕らえられ、抑留キャンプに
入れられた。日本の敗戦〜共和国独立〜武力闘争期を経て共和国の主権承認が達成された
後、かれらはオランダに送還された。[ 続く ]