「ヌサンタラのドイツ人(4)」(2020年10月04日) そこにもうひとつのメリットが加わった。中部ジャワの木工職人たちは自分たちの疲れを 癒すためのマッサージ女を連れて来ていたのだ。総督職に就いたファン・イムホフに取り 巻きがマッサージを勧めたことは想像に余りある。多分、一番見目の良い女が選ばれたの だろう。ファン・イムホフ総督はこの女もチパナス参りのメリットの中に加えてしまった。 女が妊娠すると、洗礼を受けさせられたようだ。かの女にはヘレナ・ピータースHelena Pietersという名前が与えられ、ヘレナはファン・イムホフの子供を3人産んだ。 後年のファン・イムホフ総督はチパナスの家に入り浸っていたようだ。かれがそのヴィラ で1750年11月1日に没したとき、かれはまだ総督職に就いていた。かれの遺体はバ タヴィアのタナアバンに埋葬された。 その後、このヴィラは歴代の総督が使うようになり、総督たちは温泉浴を愉しんだだろう が、マッサージ女が付いたかどうかはよく分からない。日本軍政期には日本人高官たちが ジャカルタとバンドンを往復する際に一泊する施設として使われた。 共和国独立後、スカルノ大統領はオランダ総督の持っていた権利を引き継いだ。必然的に チパナス宮殿は大統領のための国家資産となり、以来インドネシア共和国大統領の一族は 国費で高原温泉ヴィラを楽しめるようになっている。 東インドに関わったドイツ人貴族の中には、1849年に東インド植民地軍司令官になっ たヘルトフ・ベーンハード Hertog Bernhardという人物もいる。この人物については拙作 ヴェルテフレーデンの中で紹介してあるので、そちらをご参照ください。度欲おぢさんの サイトでどうぞ。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-27Weltevreden.pdf また20世紀初期に東インドで事業を行ったドイツ人もいる。20世紀前半の時代という のは、在留ドイツ人の密度において日本を除くアジアの中で蘭領東インドが最大の国だっ たのである。 1878年、ノイシュタットNeustadt an der Haardtの実業家の家系に生まれたエミール ・ヘルフェリッヒEmil Helfferichは東南アジアでのビジネスにチャレンジするため、1 899年にヨーロッパを去った。ペナンで一年と少し働いてから、1901年にスマトラ 島南部のトゥルッブトゥンTeluk Betungに移った。イギリス領からオランダ領へ足場を変 えたことになる。 細々とした資金でビジネスを続け、やっと事業への確信を得たかれはドイツに戻って資金 集めを行い、それを携えてバタヴィアにやってきた。ヘルフェリッヒカンバニーを興して 念願の自分のビジネスに邁進する。1909年、ストレーツ&スンダシンジケートの総取 締役になる。1915年にはバタヴィアでドイツ語雑誌Deutsche Wachtの発刊を開始。 かれは独身で一生を過ごしたが、人生の伴侶は得ていた。つまり結婚はせず、子供も持た なかったが愛情生活はつかんでいたのである。かれの生涯の伴侶はオランダ人将軍とジャ ワ人の妻との間に生まれた欧亜混血女性で、1939年にかの女が没するまでふたりの間 に別れは訪れなかった。 船上でのかの女との出会い。そのころ、ヘルフェリッヒはオランダ語がまだうまくなかっ たためにふたりはフランス語で会話した。最初かれはその女性をインドシナに向かうフラ ンス系のひとと思ったが、「わたしの父を知っているか?」と尋ねられ、言われた名前が オランダとドイツ系のものだったことで誤解が明らかになった。[ 続く ]