「ヌサンタラのドイツ人(終)」(2020年10月05日)

1932年からヒトラーとの関係が始まり、かれはナチスを支える諸組織の役員を務める
ようになる。1940年には東アジア協会会長として東京を訪れ、講演を行っている。

かれの事業の一つ、西ジャワのチコポCikopoに設けた茶農園の話は拙作「南の島のUボー
ト」の中で触れられているので、それをご参照ください。これも度欲おぢさんのサイトで
どうぞ。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-33U-boats.pdf


20世紀前半の時代のドイツ人で忘れてならないのはバリ島のヴァルター・シュピース
Walter Spiesだろう。ヴァルターはドイツ人外交官の父とドイツ人貴族の母の間に189
5年、モスクワで生まれた。しかし他の情報によると、父は実業家であったり、あるいは
ドイツ人の祖父がロシアに帰化し、父はロシア国籍でドイツの名誉領事だったというもの
もある。ドイツ人の項に加えて良いものかどうか迷うところだ。

モスクワで暮らしていた一家は共産革命によって貧困生活に叩き落とされ、ヴァルター自
身もバシュキールbashkir地方へ流刑された。三年間のバシュキール時代にかれは底辺層
のひとびとと交わり、どん底生活の中で絵画を始める。展覧会のためにドレスデンへ行き、
更にアムステルダムに移ったが、バシュキール時代の生活はかれのヨーロッパ社会に対す
る観念を根こそぎ覆してしまっていたのである。かれは自分がヨーロッパ社会の一員であ
ることを嫌悪し、ヨーロッパの中にいる自分を消滅させることに憧れるようになる。

1923年にかれはヨグヤカルタを訪れ、スルタンの依頼でヨーロッパ式管弦楽団の編成
を行った。あるときバリを訪れたかれはそこに自分の存在の場所を見出して、1927年
にウブッUbudでの暮らしを開始する。

自然主義者で同時に画家・音楽家・作曲家など多彩な才能を持ったかれは世界に向けてバ
リ文化を発信する立場に立つことになり、その関連でマーガレット・ミードやチャーリー
・チャップリンらがバリを訪れて休日を楽しむようになった。


1937年、かれはカランガスム県イセIsehに山小屋を建てて住み、種々の芸術活動を行
ってバリの著名人になる。植民地官憲は危険なドイツ人に対する監視を強め、折りしも行
われた同性愛者取締りに関連して1938年にヴァルターを逮捕した。マーガレット・ミ
ードをはじめとする世界的著名人たちの人脈が、1939年にかれを牢獄から放免した。

だが第二次大戦の勃発でナチスドイツがオランダを占領したために、東インド植民地政庁
は在留ドイツ人を数千人抑留キャンプに入れた。戦争前には東インドに8千人のドイツ人
がいて、その中に芸術家が159人いたという記事もある。

日本が東インドに対して軍事行動を開始すると、抑留キャンプのドイツ人はセイロン島へ
移されて行った。1942年1月にスマトラ島西海岸のシボルガSibolgaを出港したKP
Mの貨客船ファン・イムホフ号はそのプロジェクトの最後をしめくくるための航海を47
8人のドイツ人を乗せて行った。ヴァルターはその中のひとりだったのである。

ところが沖合に出たとき、ファン・イムホフ号は日本軍爆撃機に発見されて攻撃を受け、
爆弾が命中したために航行不能になって沈没が始まった。ファン・イムホフ号乗組員は互
いに助け合いながら脱出したが、抑留者ドイツ人は見捨てられた。オランダ人はかれらに
救援の手を差し伸べなかったのだ。ドイツ人は自力で脱出を試み、2百人ほどが船を離れ
たものの、最終的にニアス島にたどり着けた者は66人だけで、他の者は不帰の客になっ
た。66人の生還者の中にヴァルター・シュピースはいなかった。[ 完 ]