「ヌサンタラの酒(2)」(2020年10月07日)

一旦ハラムと定められた物品はウンマーにあってはならぬものとなる。自分は酔わないか
らいいじゃないか、では済まないのだ。ウンマーにあってはならぬものを身辺に置けば、
それは反社会的行為となるのだから。ところがウンマーの外では、またロジックが変わっ
て来る。ウンマーの中で社会からの他律性に従って暮らしていたひとびとは、社会からの
統御が失われてしまうと、あとは自律する以外に方法がない。

モスクが近くになければアザーンの声は聞こえて来ず、自分で日々の礼拝時間を調べ、時
計を見て行動せざるを得ない。ウンマーの中にいれば、冠婚葬祭の一切も隣近所から友人
知人までが同一のしきたりを当たり前としているから、本人が何かを失念してもだれかが
カバーしてくれるのであって、ウンマーから出てしまえばそんなことは望みようもない。
ウンマーのない土地で仮想ウンマーの下で暮らす場合は、すべてを自律的になさねばなら
なくなってしまう。

ウンマーというのはアッラーの命令を骨子に置いた、つまりイスラム法に則った人間の生
活共同体であり、人間がその中身を調整しながら運営している。だから酔うかどうかとは
無関係にアルコール飲料がハラムにされる。仮想ウンマーの下で暮らす場合は、その習慣
を続ければよいのだが、さまざまな不便が生じて来る。それを克服するために、日本のよ
うにウンマーが存在しない土地で暮らすムスリムには、直接的にアッラーと対峙する道が
開かれる。

アッラーが命じているのは「酔ってはならぬ」なのだから、酔わなければ良いじゃないか
という判断はそのときに出現するのである。それはウンマーから切り離されたムスリムに
とってのものだ。ウンマーの中での生活で、あるいは日本にいながら仮想ウンマーの下で
生活するムスリムには、その判断は毒(つまりはハラム)にしかならない。


こうして、アルコール含有のドリアンに非ハラム(と言うよりハラル)のお墨付きが与え
られることになった。どうやら、植物素材が自然発酵してアルコールを持つようになるも
のは基本的にハラムとされない考え方になっているらしい。オオギヤシの花から採取され
る液体はニラair niraと呼ばれて飲用になり、ニラを発酵させるとヤシ酒になってアラッ
ができるわけで、ココナツアラッはハラルとハラムの隙間に置かれているそうだ。

こうしてタぺtapeも固形ブルムbremもハラムの非難を浴びないで済むようになっている。
面白いのは、ノンアルコールビールがハラムにされていることだ。これには別の定義があ
って、ハラムな物品に似せて作られたものはハラムであるというものが適用されている。
アルコールの有無や濃度といった基準でハラル・ハラムが決められているのではないこと
を、それが端的に物語っているようにわたしには思われる。


アラッはニラ、米、サトウキビ、果実などから作られる。この素材の選択は地元で得られ
やすいものが優先される原理に沿っていて、国や地方ごとにウエイトが違っているようだ。
発酵した素材をボイラーで蒸留するのが製造プロセスであり、生産者の気に入る色や風味
の製品が作られるべく蒸留の回数は生産者次第になっている。

インドネシアではバリのアラッが有名で、カランガスムKarangasemが主生産地であり、素
材はニラと米が主体で、アルコール濃度はかなり高い。諸外国にも輸出されている。

一方、バタヴィアアラッBatavia arrackというものもある。インドネシア語にすればarak 
Bataviaだ。これは素材がたいていサトウキビであり、カリブ海のラムと似たようなもの
だ。蒸留物に独特の風味と香りを添えるために、地元で採れる酵母菌と赤米を発酵させた
ものを混ぜてサトウキビを発酵させる。発酵液はアルコール度50〜70%に達するまで
蒸留される。

このアラッが何百年も昔からジャワへやってくる西洋人の必須飲料になっていた。オラン
ダ人はこのバタヴィアアラッを他の飲み物と混ぜてリキュールやパンチを作った。薬草リ
キュールやパヒッpahitの味を良くすると言って、オランダ人は好んで使っていたそうだ。
食品産業でも使われた。[ 続く ]