「コメ諜報員(前)」(2020年10月08日)

インドネシアにも諜報機関がある。日本軍政期に日本軍が行った諜報活動教育から出た人
材がインドネシア共和国誕生のときに諜報部門を設けたのが発端だ。政府機関のひとつで
あり、現在は国家諜報庁BINという名称だが、かつては国家諜報調整庁BAKINという名称だ
った。オルバ時代に、この諜報機関は国の農業政策に関する諸方針の検討を行った。

1974年にBAKINが国政高官と政府機構内諜報コミュニティ宛に作った報告書には、
集団指導Bimasと集団強化Inmas、国内と世界の肥料供給、都市ゴミを使う有機肥料工場の
可能性、民間経営によるライスエステートの可能性などといったテーマの検討内容が記さ
れている。これはオルバ期初期に行われた食糧増産政策に関連する諸項目の検討内容を述
べているものだ。

スカルノ時代末期に破綻した国家経済を立て直すことがオルバ新政権の急務になった。そ
の時期のオルバ政府にとって、経済成長の受け皿を農業に求めるのは他に選択の余地のな
い当然すぎる方針だった。高騰した食糧価格を早急に引き下げなければならない。農業育
成に真剣に取り組むことによってそれが可能になる。いささかの手抜きも許されないのだ。
そのために、農業省にお目付け役として諜報部門員が置かれた。

その時期のスハルト大統領の考えには、マタラム王国の基本方針である「国家の強さは食
糧供給の強さによって決まる」という観念が大きい位置を占めていたように見える。ジャ
ワ島における食糧とは米のことだ。食糧供給の揺らぎは国家基盤の揺らぎなのである。政
治的安定は食糧供給の充足が鍵を握っている。その思想はジャワ年代記Babad Tanah Jawi
の中に随所に明記されてあった。

だからその状況における諜報部門の機能は軽視できないものがあり、必然的に農業関連情
報が諜報部門の中で大きいウエイトを占めた。その事実からわれわれは、農業関連イシュ
ーがかなり昔から政治の中で重要な位置付けを与えられていたことを知るのである。

< ビマスプログラム >
きわめて複雑だと言われているインドネシアの食糧問題と食糧問題克服のためのビマス・
インマスプログラムの詳細についての検討が行われた。報告書はその二つのプログラムに
関する概略を見せてくれる。

大きく分けてビマスはBimas, Bimas Baru, Bimas yang disempurnakan, Bimas gotong 
royongの四種類があり、インマスはInmas, Inmas Baruの二種類があった。たとえばBimas 
gotong royongでは政府と民間(民族系と外国系)が共同で生産設備や諸サービスを用意
する構想が検討されている。

Bimas gotong royong1968/69作期と1969作期では、このプロジェクトに必要
な生産設備と諸サービスは約一年程度の短期債務形式で外国民間企業が政府に対して用意
した。プロジェクト参加農民は債務返済を米の現物で行った。

このケースでは、プログラム内での外国側の役割に焦点が当てられた。オルバ時代に入っ
たとき、農業生産設備を供給する場での外国の役割がたいへん優勢になったのである。肥
料・苗・殺虫剤の供給面で外国への依存がたいへん高まったのだ。農業生産設備供給のた
めに外国勢は競ってインドネシアへの投資を行った。

特に輸入肥料への依存についてこの報告書は、肥料供給はきわめて不十分であるため外国
からの輸入が不可欠であると述べている。PB5、PB8、PB20、Pelita I/1、Pelita I/2など
肥料に依存する新しい品種が開発されて、肥料の需要は上昇した。それらの品種は肥料へ
の反応がたいへん大きかったからだ。その結果、1969〜1974年の第一次5か年計
画期間中の肥料消費は大幅な上昇を示し、尿素肥料で223.6%、硫安肥料は152%
の増加を示した。この現象が農民の肥料依存度を激化させたことは大いに想像がつく。報
告書は農民の肥料意識が増大したことを指摘している。農民はコメだけでなく他のものに
も肥料を使うようになった。[ 続く ]