「ジャワの歴史はコメの歴史(前)」(2020年10月12日)

古代語の調査から、古代ムラユ文化の中に農耕活動の存在を示す語彙が見つかっている。
古代ムラユ語使用者は海洋に向けられたオリエンテーションを強く持っていたことがその
調査によって明らかにされているが、それと同時に畑作農業を行い、陸稲や芋類を栽培し
ていたことも判明した。

オーストロネシア文化域の西部には稲を示す言葉が広範に分布しており、ムラユ文化はも
ちろんその中のひとつだ。ところが東部にはその現象が見られないのである。インドネシ
ア語のberasとチベット語のbrasが同じコメを意味していることが明らかになったとき、
その両文化の出会いが東南アジアで起こっただろうことが推察された。

クンチャロニンラKoentjaraningrat教授の1984年の著作Kebudayaan Jawa(ジャワ文
化)によれば、陸稲栽培はビルマ北部に由来しており、集団移住によってマラヤ半島を通
ってインドネシア〜フィリピンの島嶼部へ広まったとのことだ。

< テクノロジー >
西暦紀元初期にヌサンタラの稲栽培はまだ素朴な方式で行われていたようだ。農耕にテク
ノロジーが加味されるようになったのは、インド文化の流入がきっかけだった。

インド南部のオリッサ州が発行しているジャーナル誌オリッサリビューOrissa Reviewの
論説を読むと、オリッサの旧名であるカリンガKalinga族がジャワ島に入ったのは西暦4
世紀ごろで、種々の階層のひとびとがさまざまな技術を持ち込んだことが記されている。
水稲耕作技術もそのひとつだった。

技術を握っていたのはバラモン階級であり、灌漑方式の水稲栽培技術ももちろんその中
に含まれていた。ジャワの原住民にそれが教えられたことによって、コメ生産は飛躍的
に増大した。こうしてジャワ島内に水田方式のコメ栽培が普及して行った。

西暦8〜14世紀に古代ジャワ語で作られたカカウィンkakawinやキドゥンkidungの中に
水田の存在を述べている内容が見られることをズットミュルダーPJ Zoetmulder教授は自
著の中に記している。たとえばカカウィンの一節に、ある村を訪れた王が稲を植える住
民たちの姿を眺める描写が登場する。

別のカカウィンにも僧侶が稲を植える姿が描かれている。米蔵の存在を示すものもある。
ただ残念なことに、カカウィンやキドゥンは王宮のことがらを述べるのが主題であるため
に、その中に見られるコメに関する情報はわれわれをたいして満足させてくれる量になら
ないのが常だ。

情報量の多さではヌガラクルタガマNegarakertagamaに如くはないようだ。この書には、
王が民衆に森林の開墾を命じ、そこに水田を作らせたことが述べられている。その土地で
耕作を行う権利を得た者は王に税を納めなければならなかった。灌漑水田についての話も、
この書の中に見つかる。

マジャパヒッMajapahit時代には、コメの輸出が行われていた。しかし王宮での贅を尽く
した暮らしの陰で、村落部に無一物の貧困農民の姿があったことをクンチャロニンラ教授
は指摘している。

マジャパヒッ王国の次は、マタラムMataram王国がコメ栽培の記録を提示してくれる。マ
タラム時代には、水田は王の独占所有物でなく、貴族たちも水田を所有していた。貴族に
土地を耕作する権利が与えられ、貴族は民衆に耕作を行わせたのである。

1804年にヨグヤカルタレシデンのマティアス・ヴァテルローMatthias Waterlooはコ
メの生産状況を書き記した。「二十年前に比べて、ましてや現在の他のコメ産地に比べて、
われわれの状況は十分なものであると言える」。[ 続く ]