「ヌサンタラのスイス人(終)」(2020年10月20日) プマタンシアンタルのスプラッマン通りJl WR Supratmanには、シアンタルホテルが今で も営業している。ロビーにはピアノが置かれ、壁には昆虫や植物標本の入った箱が6個飾 られて、ホテル経営者が自然に深い興味を抱いていることをうかがわせている。ところが、 それはただの興味どころではなかったのだ。 ハインリッヒ・ズーベックが建てたこのホテルに飾られているすべての標本箱は、その創 始者が手ずから作ったものだったのである。化学技術の学士号を持つ技術屋の心の底には 大自然に向けられた強い愛情が流れていたにちがいあるまい。 オランダの国立植物標本館Nationaal Herbarium Nederlandの解説によれば、ズーベック は1914年からスマトラ東海岸レシデン区のスガイタルアンSungai Taroean、アサハン Asahan、アイェルサコルAyer Sakor、バンカラッBangkalak、ウラッブタルOelak Boetar などで動植物の採集活動を開始し、そのあとトバ湖周辺に移ってカバンジャヘKabanjahe、 グヌンリアリアGunung Ria-ria、テレTele、シディカランSidikalang等々で原生の動植物 を採集してまわった。しかし日本軍の占領によって、西洋人のかれが自由に山野を渉猟で きる機会は閉ざされてしまう。 日本軍がやってくるずっと以前に、1914年から17年までの間に作ったシダ類の標本 を携えてかれはチューリッヒに赴き、母校の教授に紹介したものの反応は芳しくなく、諦 めてしばらく様子を伺っていると、別の教授がやってきて買い上げてくれた。その教授は ズーベックの標本を全部買い上げており、それらは今でも大学の植物標本庫に保管されて いる。以後、ズーベックの作る標本はチューリッヒ、レイデンLeiden、ボゴールに置かれ るようになった。 しかし1941年に作られた標本は日の目を見ることなく消えてしまった、とズーベック の傍らに仕えていたエルマン・タンジュン氏は語る。 「日本軍が来るので、ズーベックさんは標本の描画を行っていました。標本が壊されたり 無くなったりすることを心配して、画に描いておこうと考えたようです。その仕事を始め ると、部屋の中にこもりっきりになるのです。画ができあがるとわたしを呼んで感想を求 めました。本物そっくりに描かれていましたよ。画は4百枚くらいできていました。とこ ろが、その力作がどこにしまわれたのか、探しても見つからないのです。あれが残ってい れば、たいへん価値のあるものだろうと思われるのに、本当に残念なことです。」 ズーベックの娘のリディアが1947年にプマタンシアンタルに戻って来たのは、父親の 事業を継ぐことだけが目的ではなかった。この娘は父親のライフワークだった標本作りを も引き継いだのである。 オランダ国立植物標本館にはリディアがスマトラ東海岸レシデン区で採集した標本にはじ まり、かの女が機会を見つけては作り続けた作品が保管されている。1953年にはプマ タンシアンタル周辺で、1954年にはパラパッParapatとシマルグンSimalungunで、1 955年にはポルセアPorsea、スリブドロッSeribu Dolok、リマプルッLima Puluhなどで 採集された標本が作られ、ヨーロッパに送られた。リディアが制作した標本も、かの女が 愛し、尊敬した父親のものと共に、チューリッヒとレイデンに保管されているのである。 [ 完 ]