「ヤハツ帆船ダイフケン(前)」(2020年10月28日)

ポルトガル船がアジアから運んできたスパイスをはじめとするさまざまな物産をリスボン
港からヨーロッパ北部の諸都市に運ぶ海上運送業に携わっていたオランダ船がリスボン港
から閉め出された。

オランダがスペインの支配から脱するための武力闘争を行っているときにスペインの王が
ポルトガルの王を兼ねたのだから十分にありうることとは思われるのだが、結果的にトラ
を野に放つことになってしまった。窮鼠ですら猫に噛みつくのである。「生かさぬよう殺
さぬよう」というのがいかに深遠な支配哲学であるかということを、われわれはこのよう
なできごとから再確認することになる。オランダ人はイベリア人にとっての窮鼠、いやト
ラになった。

こうなればわれわれが直接スパイス諸島に出かけてスパイスを持ち帰り、イベリア人に二
重の痛手を与えてやれとばかりに、アムステルダムの商人たちは遠いアジアに向かうため
の準備を開始した。そのひとつが航路情報の収集であり、また遠洋航海のための船の建造
でもあった。

コルネリスCornelisとフレデリックFrederickのデ・ハウトマンde Houtman兄弟がアムス
テルダム商人の体裁で1592年にリスボンに乗り込み、そこに滞在して航路情報探り出
しに精魂を傾けた。船から見える地形がどうで、どのようなランドマークがあり、岩礁や
浅瀬、そして風向きがどうであり、船にとっての危険はどうなのか、原住民の危険はどう
なのか、さらに現地のポルトガル人が抱えている弱点はどこにあるのか?

いかに精巧な海図でも、そこまでの情報を盛り込むことなどできはしない。ポルトガル当
局に捕らえられて入獄する破目に陥りながらも、ふたりは情報を探り出して1595年に
アムステルダムに戻って来た。


アムステルダムの商人たちは1594年に遠方会社Compagnie van Verreを設立して資金
を集め、民族開闢以来はじめてアジアの、しかもその中央部に位置するスパイス諸島に赴
くオランダ船を四隻建造した。マウリティウス Mauritius、アムステルダムAmsterdam、
ホランディアHollandia、ダイフケンDuyfkenがその四隻だ。ダイフケンはダイフィエ
Duifjeと呼ばれたり、あるいは別綴りでDuifkenやDuijfkenと書かれることもある。

他の三隻が460トンの規模であったのに比べて、ダイフケンは50トン、船体長19.
9メートル、デッキ長15.2メートル、船尾高5.5メートル、三本マストで最長の帆
柱が6メートルという、名前通りの小鳩だった。ヤハツjachtと呼ばれたこのタイプの船
は高速で小回りが利き、浅い海にも入れるというメリットがあるため、船隊の最前衛を哨
戒しながら先導したり、各大型船の間の連絡を行うといった機能を担った。


四隻の船隊は248人のひとびとを乗せて1595年4月2日、テセルTexel港を旅立っ
た。大西洋を下って8月2日に喜望峰に達し、10月にマダガスカル島に上陸した。セイ
ロンを経由してから船隊がスマトラ島西岸に接近したころ、エンガノEnggano島に立ち寄
ったダイフケン号は、乗組員が原住民に捕らえられる事件に遭遇している。

1596年6月やっとバンテンに到着したオランダ船隊は、ポルトガル人にそそのかされ
たバンテンスルタンの非友好的な姿勢のために、法外な値を付けられたコショウを買うこ
とができず、おまけに水の補給さえ拒まれた。

ハウトマンと一部の乗組員が逮捕されて身代金を払わせられた結果ハウトマンは暴れ始め、
バンテンの町を砲撃し、またスパイスを運んでバンテンにやってきた地元船を攻撃した。
バンテン王国軍がオランダ船隊を攻撃したのは言うまでもない。オランダ人は乱暴者だ、
海賊だ、という風評がすぐ現地の諸港に流れた。

船隊はジャワ島北岸を東に向かい、バンテンと不仲の関係にあったジャヤカルタで物産の
買い付けを行うことができた。その際、ジャヤカルタの沖に浮かぶスリブ群島Kepulauan 
SeribuのひとつダプルDapur島で、ダイフケン号は船体修理を行った。ダプル島はオラン
ダ時代にダイフケン島と呼ばれていたそうだ。[ 続く ]