「ヤハツ帆船ダイフケン(後)」(2020年10月30日)

スラバヤ近くのシダユでは原住民に攻撃され、船上での戦闘となり、乗組員が12人殺さ
れた。マドゥラでは、敵意のなかった王族がオランダ船隊を出迎えにやってきたとき、ア
ムステルダム号が砲火を浴びせて死者を出してしまった。この時点で船隊に乗っているの
はわずか94人になっていた。

船隊は更に進んでバリ島に達した後、帰国の途に着いた。アムステルダム号は損傷が激し
かったために放棄された。1597年2月26日に東インド海域を出帆した船隊はその年
8月14日にテセル港に帰着した。

オランダ人にとって記念すべきその初航海をなしとげたダイフケン号は1601年4月2
3日、再びスパイス諸島の航海に出た。5隻から成るモルッカ行き船隊がバンテンに到着
したとき、数十隻のポルトガル船隊に行く手を阻まれた。1602年1月1日に海戦が始
まり、最終的に引き下がったのはポルトガルの方だった。ポルトガルとオランダの間で優
劣が逆転した瞬間がそれだったのではないだろうか。

バンテンのスルタンは好意的にオランダ船隊を迎え、オランダ人はジャカルタ湾の探査を
行った。このときの資料が、後にVOCがバタヴィアに根拠地を置いたときに大いに役立
っている。


1602年3月20日にVOCが設立されると、すべての船がVOCの管理下に入った。
1602年12月18日、ダイフケンはVOCとして二度目の航海の途に着いた。モザン
ビーク→ゴア→カリカット→ペグ―を経てバンテンに到着したのは1603年12月31
日のこと。

その後東インドでの諸任務に従事していたダイフケンは、1605年に新たな土地を発見
するための探査を命じられて、航海に出た。ヴィレム・ヤンソンWillem Janszoonを船長
とするその探査航海はバンダ島からケイ諸島を経てニューギニア島の南部海岸に達し、船
はさらに南東方面へと進んだ。そして1606年、ヤンソンは海図に描かれていない土地
をついに発見したのである。オーストラリア大陸最北端のヨーク岬がそれだった。

ダイフケンは更に岬の西側を南下してカーペンタリア湾を発見し、探査隊はぺネファーザ
ー川に上陸した。史上最初のヨーロッパ人によるオーストラリア大陸発見と上陸はこうし
てオランダ人によってなされたのである。ダイフケン号の名はオーストラリアの歴史に刻
み込まれることになった。


このダイフケンの原寸レプリカがオーストラリアのフリマントルで作られた。VOC創設
4百年記念行事のひとつとして、オーストラリアはシドニーからポートダグラス、インド
ネシアはジャカルタ、スリランカのガレ、そしてマウリティウス、ケープタウン、セント
ヘレナ、アセンション、アゾレスなど、かつてダイフケンが通ったルートを逆行してアム
ステルダムのテセル港に2002年4月に入港させ、盛大な祝祭の目玉のひとつにしよう
という企画なのである。

レプリカ制作は230万米ドルを費やした。費用はオランダとオーストラリア、そしてイ
ンドネシアも負担した。2002年にオランダ政府と王宮の肝いりで盛大な祝祭が開かれ
たVOC4百周年記念の催事には、オランダ国内でさえ賛否両論が飛び交っていた。オラ
ンダという国と民族を一時期世界トップランクの一流国にし、オランダの国家が安定的に
成立するための財政基盤を確立させた立役者がVOCだったことは疑いもない。オランダ
の国政上層部がそれを称揚し記念することを考えるのも一理あるとはいえ、その犠牲にな
った国と民族があるにも関わらずそれを無視して自己中心性を振り回す姿勢はどうなのか
という意見がオランダ国内の批判派のものだった。

ましてやインドネシアにとって、VOC4百周年記念の祝祭とは何事なのかという意見は
出て当然だ。オランダ政府はVOCという会社と深い関係にあったインドネシアに対して、
その祝祭に参加することを求めた。だが、記念は良いとしても、それを祝うとは何という
ことなのか?外交筋をはじめ、国民知識層の中から「ノー」を叫ぶ声が噴出したのは当然
の成り行きだったと言える。

レプリカのダイフケン号はスンダクラパ港に立ち寄って歓迎式典が催されたものの、国民
全般の眼はそれを冷ややかに眺めただけだった。[ 完 ]