「クーンの野望(1)」(2020年11月02日)

1602年3月20日にオランダ連合東インド会社Vereenigde Oostindische Compagnie
が発足したことで、それまでオランダ各州の商人や資本家が州政府の独占認可を得て行っ
ていた東インドスパイス貿易が国益という形に一本化された。

だがVOCの発足以前から、オランダ船は東インドの各地に出没して地元民との交易を行
いつつ、ポルトガルの既得権益をつぶす動きを行っていたのである。ポルトガルが牙城に
した北マルクのテルナーテTernateにさえ、1599年にヴィブロンド・ファン・ヴァル
ヴェイクWybrand van Warwijck率いる2隻の船隊が訪れてテルナーテのスルタンと交易の
交渉を行い、了承を得て交易ポストを設けている。

東インドにおけるオランダのすべての動きがVOCの下に統合されるや、テルナーテから
のポルトガル勢力追い落としに力が入った。オランダが1605年にテルナーテのポルト
ガル要塞を陥落させてポルトガル人の一掃に成功したのもつかの間、一年後にはスペイン
がテルナーテを支配下に取り戻そうと進攻してきた。テルナーテのスルタンはスペインの
侵略に対抗したが何度も敗れ、ついにVOCに軍事支援を要請してスペインの侵略を打破
したものの、VOCに頭の上がらない状況へ向かうのを避けることはできなかった。


マルク中央部のアンボン島では、テルナーテを支配下に置いたポルトガルが1562年、
テルナーテに服属していたアンボンに初代カピトゥンCapitaoを置いてポルトガル人の入
植地にし、1569年にはヒトゥHituに交易所を設け、またアンボン湾の向かい側にハテ
ィウィ Hatiwi要塞を建設した。

1601年、アンボン湾の一帯でポルトガル船隊とオランダ船隊の交戦が行われ、数で勝
っていたポルトガル船隊がオランダ船隊を壊滅させることができず、反対にオランダ側は
ヒトゥのハティウィ要塞を奪取した上、アンボンの町に武威をかざすことになった。

1605年2月23日、オランダはアンボンのポルトガル人に最後の決戦を挑んだ。アン
ボンの海岸線に押し寄せたオランダ軍船から続けざまに艦砲射撃が行われ、1575年に
ポルトガルがアンボンに設けたノッサセニョーラアヌシダNossa Senhora Annucida要塞の
城壁が崩れ落ち、VOCの陸戦部隊が攻撃を開始すると持ちこたえることができず、ポル
トガル側は早々に白旗を掲げた。

終戦交渉の結果、ポルトガルは全マルク地域をオランダに明け渡し、ポルトガル軍事力は
マルクから撤退すること、マルクに残りたいポルトガル人はオランダに忠誠を誓うことが
合意された。その日から、アンボンの市行政はオランダ人行政長官が掌握した。

ノッサセニョーラアヌシダ要塞はオランダが建て直して改装し、アンボンにおけるVOC
資産のひとつとして使い続けた。名称はニューフィクトリアNieuw Victoriaに変更されて
いる。


他のヨーロッパ勢力を押しのけてマルク地方の覇権を掌握したオランダVOCは、後に地
域を三分割して地域行政長官を置いた。アンボン、バンダ諸島、テルナーテがその三地域
であり、行政長官所在地の中でもアンボンとテルナーテがヨーロッパ人の入植地域にされ
た。それらの地域行政長官は台湾やセイロンの長官と同格で、それぞれが総督直属の地位
に置かれた。[ 続く ]