「クーンの野望(2)」(2020年11月03日)

マルク地方におけるスパイス独占構造はそれ以後長い年月をかけてシステム化がなされて
いくのだが、その時点でVOCがアンボンを東インドにおける会社活動の中心地にしよう
と考えていたわけでもなかったようだ。

地勢的メリットが大きいとしてマカッサルにVOC活動の中心地機能を持たせたいと考え
る意見も存在していた。VOCはマカッサルを支配するゴワGowa王国と交渉を行い、16
09年に交易ポストを設ける許可をスルタンから得た。だがゴワのスルタンも抜け目がな
かった。スルタンはポルトガル・スペイン・イギリス・フランスなどに対してマカッサル
に商館を設けるよう誘ったのである。VOCはマカッサルに執着することを諦めた。

結果的に、既に出来上がって自転しているアンボンがVOCの東インドにおける事実上の
中心地になっていった。スパイスの産地を支配し、そこで獲れる産品をヨーロッパに運ん
でくるビジネスを盛り立てるのなら、現場に近いほうがはるかにメリットがある。おまけ
にオランダの独占を破ろうとして虎視眈々と隙を伺っているイギリスや他のヨーロッパ勢
から独占を守り抜くためにも、それが一番都合がよいのは明らかだ。


1610年以来、VOC社内ではその見解が常識化したようだ。VOC重役会ヒーレン1
7Heeren XVIIは東インドにおける現地情勢の安定化が進展したと見て、現地総支配人を
置くことを決めた。白羽の矢が立ったのはブラバント州の東インド会社で活躍した経歴を
持つピーテル・ボーツPieter Bothであり、かれは1609年にマルクに向けて赴任の途
に就いた。

VOC初代総督がこの人物である。任期は1610年12月19日から1614年11月
6日までで、マルクに作られた総督館に常駐して東洋世界全域における会社活動の指揮を
執った。

アンボンが東インドにおけるVOCの総本山となって総督が二代〜三代と交代し、161
7年10月25日に第四代総督が指名されたのだが、この総督はアンボンの総督館に入ろ
うとしなかった。かれははるかに雄大な構想を抱えていたのである。


1603年、VOCは西ジャワのバンテンBantenに商館を開いた。VOCが東インドで一
番最初に開いた出先機関がこのバンテン商館だった。初代商館長にはフランソワ・ウィテ
ールFrancois Wittertが就任した。

アンボンに総督館が設けられるまで、東インドにおけるVOC会社活動の現地中枢機能を
バンテン商館が担ったことは容易に推察できる。時のバンテンスルタン、アブドゥル・ム
ファキルAbdul Mufakhir Mahmud Abdulqadirはオランダ人に対し、船舶入港・船着き場建
設・事務所・小規模陣地・倉庫を建てる許可を与えた。

1602年に女王陛下の公式使節としてバンテンを訪れたイギリス人はバンテンスルタン
の厚遇を得て町中に商館建設の許可を与えられ、1603年にイギリス商館がオープンし
た。一足遅れたオランダ人は町の外に土地を与えられた。専用船着き場や陣地・倉庫など
を町中に作らせる行政管理者はいないと思うが、オランダ人はそれをバンテン王宮からの
差別待遇と感じたようだ。まあ、国交がらみと商業会社からの要請を同一レベルで扱う姿
勢はどんな行政組織にもないと思われのだが。

その後、オランダもイギリスもそれぞれが自分のビジネスを行っていたものの、商品獲得
競争が激しくなるにつれて、両者は互いに相手を蹴落とそうとして抗争があからさまに行
われるようになる。オランダ人とイギリス人が街中の路上で出会うと一波乱起こらずには
済まない状況にエスカレートし、バンテン王国の市中治安機構が一波乱を抑止しようとし
てかかると、今度は治安機構を味方に付けようとして抗争は更に悪化していく。[ 続く ]