「蜘蛛の巣水田」(2020年11月02日)

東ヌサトゥンガラ州は乾燥気候のために不毛な土地が多い。州の総面積47,349平方
キロの96.7%が乾燥地であり、食糧としてのコメは年間10万トンが他州から移入さ
れている。そんな概略ではあっても、フローレス島西部にコメの産地がある。マンガライ
Manggarai県は年間の作付面積が2.15万Ha、水田面積1.16万Haを擁し、コメ
生産量は年に5万8千トンに上っている。県内消費が2万8千トンだから3万トンの余剰
があり、自県の需要すら満たせない他の諸県をおさえてひとり気を吐いている。

マンガライ県の水田の多くは、方形の田が並ぶジャワやバリと異なり、円形の地所が中心
点をもとにしてまるでピザのように円錐形に分割されている珍しいものだ。地元の呼び方
でロドッlodok、あるいは英語で蜘蛛の巣状の水田と呼ばれている。

ほぼ円形に取られた平地はリンコlingkoと呼ばれ、リンコの中心に木が植えられる。ひと
つのリンコには管理者がいて、そのリンコに参加する農民に土地を分配する。中心点から
リンコの外周まで線を引いて全体を分割すると、各農民はその割当地を横向きに再分割し
て台形の水田を作るために、まるで蜘蛛の巣のように見えるのである。

この蜘蛛の巣水田は、土地を耕す時期や収穫前の稲の色が田ごとにさまざまに異なってい
る時期に丘の上から眺めると、実に面白い風景画を見せてくれる。

リンコの中心がテノtenoで、円形のリンコの外周線がチチンcicingであり、テノとチチン
を結んで分割地を作る線がラガンlangang、分割地はモソmosoで手の指のことだそうだ。
モソの広さはそのリンコに参加する住民の数次第になる。参加者が多ければひとり当たり
の面積は小さくなり、参加者が少ないと広い土地がもらえる。


ロドッ方式が始められたのはマンガライ県ルテンRuteng郡にあるチャンチャルCancar村だ
そうだ。東ヌサトゥンガラ州にコメ栽培がはじめて持ち込まれたのがチャンチャルだった。
その陰に、アレクサンドゥル・バルッAlexander Barukの功績がある。

かれは1931〜1945年の間、マンガライ王国の王位に就いた。かれは農業振興を意
欲的に推進し、それまでなかったコメ栽培やコーヒーの栽培を民衆に勧めたのだ。水田農
業を開始するにあたって、かれは何人もの住民をバリに送って農耕を学ばせた。

戻って来た住民はチャンチャルでコメ栽培を開始した。最初は120Haの水田で学習の
成果が実行に移され、その後の歴史を経て今では1,500Haにまで水田面積が広がっ
ている。マンガライはもとより、東ヌサトゥンガラ州ではじめて作られた水田はチャンチ
ャル村のヌギNugiとロロLoroのふたつのリンコが元祖なのである。


マンガライ王国は祖先がミナン人だったとかブギス人だとか言われている。地元でのし上
がって来た実力者が王位に就くというパターンではなかったらしい。郷土史に語られてい
る歴史譚によれば、17世紀後半に南スラウェシから上層階級のひとびとがやってきて住
み着いたという話だ。その中心人物がカラエン・マスフルKaraeng Mashurで、かれは元々
ミナンカバウからランタウrantauして南スラウェシのゴワGowa王国にやってきた人だった。
マスフルはゴワ王から厚遇されて、貴族の称号であるカラエンを与えられている。

ところがマルクを手中におさめたVOCは、スパイスの独占事業を確実にするために近隣
商港の制圧に乗り出してきたのだ。主要中継港のひとつマカッサルにはスパイスマーケッ
トができており、VOCにとっての大きなターゲットになっていた。VOCは実力でマカ
ッサルを支配下に置こうとし、ゴワ王国との戦争が始まる。1660年に始まった戦争で
スルタン・ハサヌディンSultan Hasanuddinの指揮下に互角の戦いを行っていたゴワ王国
も、長引く戦争と人材の厚みの差によってついにVOCに対抗できなくなり、1667年
11月にボガヤBongaya/Bungayaで降伏文書にサインすることになった。そのときに結ば
れたボガヤ条約の内容があまりにもゴワ王国に屈辱的なものであったため、王国上層部に
いた王族貴族や大商人あるいはウラマたちが南スラウェシを見捨てて他の土地に去って行
った。

マスフルもそのひとりであり、かれはマカッサルから真南のマンガライにやってきたとい
うことだ。文明のまったく遅れていた当時のマンガライにマスフルの一党は鉄器や火を伝
え、植物栽培を教え、糸を紡いで布を織り、巨大な家屋を建てて住んだ。かれらは地元民
を征服して奴隷にしようとせず、地元民に文化を教えて生活を向上させたことから、地元
民はかれらを王と仰いだという話になっている。そえがマンガライ王国の由来だ。


今ルテン郡の十カ村で5千2百人の農民がチャンチャルの水田を耕作している。昨今の問
題は、下流地域の水田に水不足が起こっているため、土地の生産性が大きく低下している
ことだ。ジャワでは二期作が可能な品種でも、ここに持って来れば水事情のために二期作
は不可能になる。

東ヌサトゥンガラ州における水田の事始めとしての歴史を持ち、同時に州内のコメ供給に
大きく貢献しているチャンチャル地方の水田事業を政府はバックアップしてほしい、とか
れら農民は願っている。潤沢な水の供給さえあれば、二期作はおろか、三期作だって不可
能ではない、とかれらは言うのである。

おまけに今や、ジャワ島の水田風景とは別の興味で、チャンチャルの蜘蛛の巣水田が観光
資源として注目されている。東ヌサトゥンガラ州のパッケージツアーの中に蜘蛛の巣水田
鑑賞プログラムももちろん用意されている。水田が持つ文化への関りがここにも顔を覗か
せている。