「クーンの野望(3)」(2020年11月04日)

バンテンの行政官や支配者層を自分の味方につけて相手と反目させようと互いに画策し合
えば、これはもう市中治安機構の手に負えるものではない。やくざ出入りまがいの毎日で
は、商売が順当に行われるはずもあるまい。おまけに1608年には王家の一族の間で内
紛が発生し、王宮の側から西洋人を後ろ盾につけようとアプローチすることまで起こった
から、バンテン王国はとんでもない事態に陥ってしまった。

バンテン王宮から西洋人への締め付けが強化されて、ますます身動きに制限を感じるよう
になったオランダ人はバンテンからの引っ越しを考え始める。バンテンのVOC商館長は
パゲランジャヤカルタPangeran Jayakartaとの折衝を開始し、1610年11月にジャヤ
カルタに住居と商館あるいは取引所を建設する許可を得た。

VOCバンテン商館長ジャック・レルミトJacques L'Hermiteはチリウン川河口東岸に縦
横それぞれ50尋の土地を当時の相場の50倍の価格で、オランダ人がプリンスジャカト
ラPrins van Jacatraと呼んだジャヤカルタの領主パゲランジャヤカルタから買い取り、
商館の建設を開始した。カプテン・ワッティングKapten Wattingが初代ジャヤカルタ駐在
員を命じられ、常に水をかぶっている湿地帯にVOCジャヤカルタ商館を建設する工事が
開始された。

建築資材の不足と頑丈な建物を作らせない意向を持つ領主の方針に沿って、きわめて見す
ぼらしい建物が1611年に完成し、ナッソーハウスNassauhuisと名付けられた。こうし
てオランダ人の宿舎兼交易ポストがジャヤカルタで稼働し始める。建物は貧相なものだっ
たが、それを防備するための堅固な石造りの防壁が川沿いに50歩ほど一直線に設けられ
た。


1615年になってイギリスの南洋政策が積極化した。イギリス東インド会社はクリスト
ファー・プリンChristopher Pringに5隻の軍船を指揮させて東インド諸島に向かわせた。
1618年にバンテンに到着したプリン船隊は、オランダ人を威嚇するべく示威行動を開
始する。

VOCはそのとき、それに対抗する戦力をジャワ島西部北岸地域に持っていなかった。V
OCの東インドにおける本部はマルクに置かれているのであり、軍事力のセンターもアン
ボンにあったのだから、平常時にバンテン商館のために軍事力を分散させるようなことは
起こり得ない。プリン船隊が来たとき、バンテン商館は最低限の防衛部隊を持っているだ
けだった。このままイギリス人と抗争を続けていては、自滅してしまうのが明白だ。

バンテンでの取引が停滞を続けているのに反して、ジャヤカルタのVOC商館は徐々に取
引量が増加していたから、オランダ人はバンテンをイギリス人に明け渡す方針を選んだ。

バンテンのオランダ商館にある人員と貨物の主力は海路ジャヤカルタのナッソーハウスに
移され、ナッソーハウスは急遽、全面石造りの堅固な建物に改造された。さらに川岸に沿
ってもうひとつの建物マウリティウスハウスMauritiushuisが建てられて、ふたつの石造
りの建物がL字形をなすように配置された。頑丈な石の城壁がふたつの建物をつなぎ、城
壁の上には数門の大砲が川に向けて並べられ、警備兵も25人から50人に増やされて新
式銃を持たされた。ジャヤカルタのオランダ商館は見る見るうちに要塞に姿を変えたので
ある。これがバタヴィア城kasteel Bataviaの前身の姿だ。[ 続く ]