「クーンの野望(4)」(2020年11月05日)

ところがイギリス人はオランダ人を追ってジャヤカルタまでやってきた。1618年9月、
プリンはパゲランジャヤカルタを訪問して協定を結ぶことに成功し、イギリス商館を建て
るためにVOC商館(と言うよりもはや要塞と称すべきものだろう)と川をはさんで対峙
する場所の土地を1千5百リアルで手に入れた。商館建設のためにイギリス人駐在員がや
ってきて、工事の指揮を執る。その駐在員は王宮の軍事顧問も兼ね、ジャヤカルタ軍の武
装は目覚ましく向上した。

それに追い打ちをかけるかのように1618年11月、イギリス東インド会社が南洋に派
遣したトーマス・デイルThomas Dale率いる6隻の船隊がバンテンの沖合に姿を現した。

プリン船隊とデイル船隊の合流で圧倒的な戦力を形成したイギリスは、東インドの通商を
一手に収めんとしてアグレッシブさを増し始めたVOCの目論見をここで粉砕しようとす
る挙に出た。オランダ人をここで徹底的にたたいておかなければ、スパイス諸島の独占は
一層強固になっていくだろう。


1613年以来バンテン商館に勤務していたヤン・ピーテルスゾーン・クーンJan Pieter-
szoon Coenをヒーレン17が1617年10月25日付けで第4代東インド総督に指名し
た。だがその辞令がバンテンに届いた時期とプリン船隊の出現が相前後して起こったこと
は十分に考えられる。

風雲急を告げるバンテン〜ジャヤカルタを後にして、新総督がアンボンの総督館に移れる
わけがない。それどころか、クーンにはジャヤカルタを置き去りにしないもっと重要な理
由が存在していた。総督館をアンボンからジャヤカルタに移す構想がそれである。

つまりクーンにはアンボンの総督館に入る意志が最初からなかったのではないか、という
ことなのである。その推測はオランダ東インド総督リストの任期データからも窺うことが
できるようにわたしには思われる。第4代総督の欄には、指名1617年10月25日、
確認1618年4月30日、就任1619年5月21日と記されており、一方でアンボン
総督館最後の総督を務めたラウレンス・レアルLaurens Reael第3代総督の任期終了は1
619年5月20日と記されている。つまり第3代から第4代への総督職引き継ぎがなさ
れたのは1619年5月のことであり、それ以前にクーンとレアルの間で新旧の総督とし
ての対面は起こらなかったということをそれが物語っているのではないだろうか。


バンテンからジャヤカルタに移ったクーンは敵味方の戦力を比較した。イギリス人は15
隻の船と2千5百人の兵力でオランダ人を叩き潰そうと意気込んでいる。言うまでもなく、
それは軍事最前線に投入された臨戦態勢の大部隊なのだ。一方、クーン側の手持ちはオン
ルストで修理中もしくは修理待ちの7隻の小型船がすべてであり、兵員は150名しかい
なかった。負傷兵・商人・日本人傭兵・ポルトガル人協力者そして中国人や原住民の使用
人などすべての男を駆り集めて銃を持たせても、戦闘力は250名ほどにしかならない。
残るカスティルの住民は、奴隷と解放奴隷ならびに中国人とメスティーソなどの婦女子1
百人だった。

クーンは直ちに商館変じて要塞となったものをもっと堅固な城に改装するよう命じた。こ
うして要塞は更に巨大なバタヴィア城に増築され、城内には宿舎としても使用可能な総督
居所兼多目的館generals huys、参議員宿舎logimen van de Raden van Indiaや倉庫兼競
売場Jaraansche corys dagardeの建物が配置され、南側には四周を囲む濠を越えて対岸の
陸地にかかる橋landpoort van casteel、北側は海から来た船が接岸できる埠頭waterpoort 
van casteelが作られた。バタヴィア城が完成したのは1619年3月12日となってい
る。[ 続く ]