「クーンの野望(5)」(2020年11月06日)

クーンはマルクからイギリス軍に対抗できるだけの兵力をジャヤカルタへ連れて来ること
を決め、1619年1月初め、ジャヤカルタを去った。残されたひとびとはイギリス=ジ
ャヤカルタ連合軍と対峙したが、戦闘は極力避けてカメが甲羅の中に閉じこもるように、
カスティルの門をぴたりと閉ざして沈黙を続けた。

2月2日、2千人のバンテン軍がジャヤカルタに進駐してきて町の全域に戒厳令を敷き、
パゲランジャヤカルタをバンテンに連れ去った。ジャヤカルタの町はバンテン軍の軍政管
理下に置かれて、イギリス軍はジャヤカルタから退去するよう命じられた。

2月6日、ジャヤカルタの町からイギリス軍は船上に引き上げ、ジャヤカルタ海域から去
って行った。オランダ人は城内に閉じこもったきりだ。3月には、他の国へ交易に出てい
たVOCの商船が荷を積んでジャヤカルタに入ってくるようになった。

4月10日、マルクから来たVOC船が素晴らしい知らせを城にもたらした。クーンの率
いる大軍団がジャヤカルタに向けてアンボンを出帆したのだ。5月28日、17隻から成
るオランダ船隊がジャヤカルタ沖に姿を現し、そして、ジャヤカルタの海岸を埋め尽くす
ように包囲した。クーンは旗艦プチホランドPetit Holland号からオランダ国旗が翻るカ
スティルを望んでいた。船は順番にカスティルの埠頭に接岸し、兵員は続々とカスティル
の中に入って行った。そうして1619年5月30日、ジャヤカルタに運命の日が訪れた
のである。


ホールンで生まれたクーンは13歳のときにローマに渡ってオランダ人商人の下で事務見
習の経験を積み、通商・会計・ヨーロッパ諸言語の能力を身に着けて1607年にホール
ンに戻って来た。時に21歳の気鋭に満ちた年齢だった。

クーンはすぐにVOCに入社し、商船乗務会計士として船に乗り組んだ。1609年、か
れの乗った船はバンダBanda島で荷積みすることになっていたが、バンダの原住民領主と
の諍いが発生して船長と多数の乗組員が殺害され、クーンは命からがら虐殺の舞台から逃
亡することができた。後日、バンダでのナツメグ生産を完ぺきなコントロール下に置くこ
とを目的にして、バンダ住民人口を十分の一になるまで殺りくし、あるいは奴隷にして島
外に送り出したクーンの所業にその原体験が何らかの影を落としていた可能性は、だれし
もが想像するところだろう。

1612年、クーンは再び東インドに向かい、1613年2月にバンテンに到着した。そ
の後かれは継続的にバンテン商館で勤務していた印象がきわめて強いのだが、一方クーン
がVOC平戸商館長に指示を出していたことが歴史書に書かれている。その書物によれば、
1615年に東インド事務総長ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは平戸商館長ジャック・
スぺクスJacques Specxに業務指示の文書を送っているし、翌1616年にも、クーンは
3月2日に行ったバタヴィアの決議を平戸商館長に伝達したと記されている。

ただ残念なことに、1616年にバタヴィアという名称の町はまだ存在せず、バタヴィア
の誕生はジャヤカルタの滅亡を待たなければならない。また上で書き連ねて来たインドネ
シア語情報に根本的な誤りがないとするなら、バタヴィアになる前のジャヤカルタですら
そこに設けられた組織はバンテン商館の出先機関でしかなかったわけで、高位のお歴々が
方針の決議を行うのはバンテンでなされる方が自然だったのではあるまいか。クーンはい
ったいどこにいて、どんな立場で平戸商館長に指示を与えていたのだろうか。[ 続く ]