「クーンの野望(6)」(2020年11月09日)

平戸商館がバンテン商館の下部組織であればその間の事情は不自然さがなくなるのだが、
東インド事務総長なる職務が東インド総督直属のブレーンで且つ総督の手足としての業務
執行総まとめ役であると解釈するなら、アンボンの総督館にいて総督から直接の指示を仰
ぎつつ業務を遂行するのがもっとも自然なあり方ではないのだろうか。事務総長が総督か
ら全く離れた別の場所にいて自ら種々の判断や決定を行なうのでは、VOCの総督制度は
正しく機能しないことになってしまいそうだ。

クーンという人間が、現場から離れた場所で観念をもてあそぶ類の人間でなく、時々刻々
変化する現場の真っただ中に身を置いて、即断即決を信条に理想を目指して道を切り拓い
ていくタイプの人間であったと見るなら、クーンがバンテン〜ジャヤカルタから離れるよ
うなことが起こるとは考えにくい。なぜなら、クーンは1614年にヒーレン17に対し
て、東洋におけるVOCの覇権確立構想を既に提案したことがあり、その中には、ジャヤ
カルタを奪取してVOCの本拠地をそこに置くことが盛り込まれていたのだから。ジャヤ
カルタの原住民を全滅させ、町を焼き払い、そこにヨーロッパ人のための都市を建設する
ことは、クーンが長い間描き続けていたシナリオだったにちがいあるまい。


クーンのジャヤカルタ攻略戦を目の当たりにしたVOC社員のひとりが後にそのときの状
況を書き記した追想録がある。シュツットガルト出身のドイツ人、アルブレヒト・シュメ
ドロップAlbrecht Schmedloppが書いた実見譚によれば、ジャヤカルタの町を奪い取るた
めに、はなはだ非人道的ですさまじい戦闘行動がなされた印象が垣間見られる。

このドイツ人は薬剤師であり、戦闘行動とは無関係な立場にあったから、比較的中立な印
象を書いていると一般に評価されている。かれは多分、ジャヤカルタのカスティルに残っ
て籠城を続けた3百数十人のひとりだったのではあるまいか。クーンがアンボンからジャ
ヤカルタ攻略のために連れて来た1千1百名の軍勢の中にわざわざ非戦闘員のヨーロッパ
人薬剤師を加えなければならない必要性があったようには思われないからだ。もちろんア
ンボンにですら1千1百名ものヨーロッパ人VOC兵士がいたわけではない。クーンはア
ンボン人をそのためにリクルートしたのである。シュメドロップはこう書いている。

1619年5月のその日早朝、完全武装のたくさんの部隊がカスティル内に整列した。緊
急警報が打たれてカスティルの大門が開かれると、戦闘部隊は小舟で川を渡って対岸に着
き、はしごをかけてジャヤカルタの町に侵入して行った。

王宮を含むジャヤカルタの町の全域を占領するのに、たいした時間はかからなかった。散
発的な抵抗が起こっただけであり、非武装住民のほとんどがすぐに町から逃げ出して近隣
のジャングルに姿を隠したから、ジャヤカルタ防衛軍もその波に引きずられる形になり、
持ち場から逃走する兵士が続出した。

VOC戦闘部隊は逃げ遅れた兵士や住民を捕らえ、武装非武装の区別など関係なく皆殺し
にした。女子供も容赦なかった。かれら原住民は平和に共存しようと望んでいるように見
えたのだが、将軍(クーンを指している)はあのような措置を行ったのである。

われわれの側は無人の境と化したジャヤカルタの街中を略奪して回った。役に立つものや
金目のものが、それを見つけた人間のものになった。それがひとわたり終わりを告げると、
今度はすべての空き家に火がかけられた。

町の中心部にパゲランジャヤカルタPangeran Jayakartaの王宮があり、北側にアルナルン
alun-alunがあって周辺には高官の住居が並び、またパサルがあった。王宮も高官の住居
もこの町のほとんどすべての建物と同じように、竹と棕櫚で作られている高床式の家屋だ。
乾燥すれば火を噴いて燃え上がる。

町のあちこちで火炎が噴き上げ、乾いた破裂音が繰り返し聞こえた。火は三日三晩燃え続
けて、町の一切を灰にした。[ 続く ]