「クーンの野望(7)」(2020年11月10日)

ジャヤカルタが焦土になってから数日後、会社は旧ジャヤカルタの土地に新しい町の建設
を開始した。旧ジャヤカルタの町と、川を挟んでカスティルのあるこちら側の両方に新し
い町が作られて、VOCの都は二倍の広さを持つものになった。

人口およそ1.5万人、3千世帯ほどあったひとつの町が焼き滅ぼされたのである。ヒュ
ーマニズム云々はさておいて、クーンが抱いた構想の壮大さと、何があろうと自己の夢を
貫徹させようとする鉄の意志の存在に気付かない者はいないのではあるまいか。

このジャヤカルタ滅亡事件の話は瞬く間にジャワ島の各地へと広がって行った。新しい場
所ができると、そこに新しい自分を見出そうとする人間が集まって来る。バンテンから大
勢の華人がその新しい町に移住して来た。シュメドロップは4千人もの華人がこの新都市
にやってきたと書いている。この町が発足した時期、住民はオランダ人やドイツ人を中心
にヨーロッパ人が1千人、黒人が2千人だったから、一躍華人人口が過半数を占めてしま
った。シュメドロップが書いた黒人とは、ほぼすべてが奴隷から成るインド人セイロン人
ビルマ人を指していた。


しかしシュメドロップの書いた華人の話はちょっと大げさだったようだ。バンテンから華
人が移住して来たのは事実だが、VOCの住民人口統計によるとバタヴィアの1619年
の華人人口は4百人、1620年には8百人に倍増し、1674年にやっと2,747人、
1740年に10,574人となっている。

華人の移住はクーンが望んだことでもあった。クーンはバンテンに駐在していたころから、
華人の器用さ、利発さ、忍耐強さに感嘆していたため、ジャヤカルタをVOCの首府にす
る構想の中で、かれらを町の建設プロジェクトの要所に配置する計画を立てていた。かれ
はバンテンで華人社会の有力者ソウ・ベンコンSouw Bengkongと親交を結び、しばしばソ
ウの邸宅を訪れては茶を供され、当時のリングアフランカであるポルトガル語で対話を楽
しんでいた。

ジャヤカルタが滅亡すると、クーンはバンテンのソウに手下を連れて移住して来るように
誘い、新都市の建設に華人を引きずり込んだ。ソウはバタヴィア華人社会の頭領たるカピ
タンチナKapitan Cinaの役職を与えられて初代カピタンに就任した。クーンの構想にあっ
た新都市建設というのは、ハードウエアとしての街作りだけではない。建築ばかりか、海
運・水運や農園および食糧生産などの生産や経済活動までを含んでいた。ソウがそれらの
事業を率先して行い、あるいは腹心の華人に一部をゆだねて全体を統制することを行い、
ソウ自身がコングロマリットの権化と化すに立ち至る。

そんな状況下にクーンとソウの親交はその後も持続し、クーンが茶を飲みにソウの邸宅に
立ち寄ることも繰り返されたし、ふたりして夕風を愉しむために海岸地区を散歩する姿も
時おり見られた。

シュメドロップの書いた4千人が実現していればクーンの望むところだっただろうが、ク
ーンが何をしたかを見る限り、その需給関係は大幅な不足状態であったことが十二分に推
測されうる。1622年、クーンはVOCの全船隊に対して、中国南海岸部から若くて元
気のよい華人男子を無理やりでもいいから拉致してバタヴィアに連れてこい、と命じてい
たのである。[ 続く ]