「豊かな飯のバリエーション(1)」(2020年11月09日)

ジャワ島での米作りの歴史においては、昔から素晴らしい自給システムが行われて来た。
各農家が持つ米蔵と村共同体の米蔵が村民の食糧自給システムを最良の形で回転させ、農
村はそれを自力で、しかも自主的に行ってきたのである。そのシステムは今や破綻してし
まった。

品種の変更が収穫システムを変化させ、技術性の先走った灌漑システムの発展、そして稲
と米の市場価格コントロールが進んだことで、農民の主食素材の備蓄を担ってきた米蔵の
役割が失われた。

そのために農民は生産者の立場から消費者の立場へ横滑りしたのである。収穫がなされる
とコメはすぐに仲買人あるいは脱穀所に売られる。農民が日々の生活のために金を必要と
しているためだ。昔のようにコメを米蔵に貯蔵し、日々の食糧をそこから小出しにするほ
かに、コメの市場価格が上昇したら売却するという投機的な動きは、今や不可能になって
しまった。

次の作付期のために苗・肥料・殺虫剤・耕作労働力などを用意しなければならず、おまけ
に次の収穫までの自家消費用食糧を金で購入しなければならなくなっている。ほとんどの
農民は単一作物栽培をしているから、育てたコメの収穫はすべて金に換える以外に方法が
ない。かれらは家族の将来の生計を次の収穫のための人質にしているようなものだ。

農業は決して簡単なものではない。稲を栽培しても、常に収穫が得られるとはかぎらない
のだから。農民が御しえないさまざまな要因によって不作が起これば、農民は損害を蒙る。
洪水・干ばつ・害虫・害獣・病気など、不作をもたらす要因は多岐にわたっている。

損害のレベルもそのおりおりで様々だ。小さく済めばまだしも、収穫がまったく得られな
ければトータルロスになる。農民にとって収穫の失敗は小さい地獄になるのだ。農民はそ
の作付期のためにすべての資本を投入しており、その資本がすべて自己資本であるのは稀
で、たいていの場合は大半が借金で成り立っている。更に農民自身の生活維持能力の問題
がある。普通の農民が持っている生活能力はせいぜい2〜3カ月分だ。農民のライフスタ
イルが変化し、生産物の生活費用への転換率が落ち込んでしまった今、農民の生活力から
余裕が消失している。

そんな状態で乾季に臨むとき、農民はたいへんなチャレンジに挑戦しなければならなくな
る。その時期は農業セクターで労働力需要が大幅に低下し、地方によってはゼロになると
ころもある。反対にコメをはじめ種々の農産物は需給関係が悪化するため、値上がりが起
こる。農民にとってのこの不毛のシーズンは、雨季作物の作付期がやってきてその収穫が
得られるまで継続し、ピークは三カ月以上続く。この季節循環は毎年訪れるものであり、
農民にそれを避けるすべはない。


コメ生産者である農民が自分の作ったコメを食べられない時代になってきた。他人の作っ
たコメでも食べられるならまだよい方で、コメ生産農民でコメの飯を腹いっぱい食べるこ
とができる者は減少している。農民階層に貧困が広がれば、都市貧困者と同じような暮ら
しに陥るのを避けることはできないのだ。

ランプン州トゥランバワン県ワイスルダン郡スカアグン村に住むサイフル・ジュプリさん
35歳は、普段からオイェッ飯nasi oyekを食べていると語る。オイェッとはキャッサバ
(インドネシア語はシンコンsingkong)の根をつぶして網で濾し、採れた粒々を乾燥させ
てコメのようにしたものだ。それを大量に作ってコメのように貯蔵しておき、食事の際に
コメと同じように扱われて炊かれ、食卓にのぼる。コメがあればオイェッとコメが2対1
や3対1で混ぜられるが、コメがなければ選択の余地はない。「コメを腹いっぱい食べら
れないのだから、オイェッに頼るしかないですよ。」
[ 続く ]