「クーンの野望(8)」(2020年11月11日)

たまたま海岸にいた地元民が異人にいきなり拉致され、遠国にさらわれて行くという悲劇
は何百年も昔に実例があったのだ。VOCの人さらい船は何度か人身御供をバタヴィアに
運び込んだが、そのうちにそんなことを続ける必要がなくなった。VOCが何をしなくと
も、ソウを頂点とする華人社会が大勢の福建人の誘致を実現させたし、厦門や広東から中
国船が華人奴隷を売りにバタヴィアへやってきた。

華人社会は社会秩序とその統制のために積極的に課金を納める者が多く、社会統治者の懐
を容易に潤わせる仕組みになっていた。華人社会の観念では世の中の成功者が大人として
世間を治めるのがあるべき姿とされていたから、金持ちを大金持ちにするルートが出来上
がっていたと言っても過言であるまい。

ともあれ、ポストジャヤカルタの街作りはVOC関係者以外に華人、ポルトガル系メステ
ィ−ソを含む南アジア人奴隷、プリブミ奴隷によって行われ、プリブミ自由人はまったく
そこに関わらなかったように見える。クーンのVOC首府構想からプリブミ自由人は排除
されていたに違いあるまい。だから逃げ遅れたジャヤカルタ住民が皆殺しにされたのだろ
う。そんな事情が「ブタウィ人は奴隷の子孫」説を生んだように思われる。

オーストラリアの歴史学者がその「奴隷の子孫」説を打ち上げたとたん、ブタウィ人知識
層が猛然と反論した。われわれが卑しい奴隷の子孫だなどとはとんでもない話だ、という
のがブタウィ人側の反論なのだが、その見解が自分自身を卑しめていることに気付かなけ
ればならないという西洋人識者の声も出された。西洋人の非人道的行為の結果先祖が陥っ
た奴隷という身分を卑しいと感じることが非人道的価値観の尻馬に乗っているのだという
見解にプリブミ自身が気が付いていないという指摘は、はなはだ当を得ているように思わ
れる。


現代インドネシアにプガメンpengamenという職業がある。これは街中あるいは家々を巡っ
て歌や踊りなどの芸を行い、その芸に対して金銭を恵んでもらう職業で、ヨーロッパで大
道芸人が一つ所で芸を披露し、通行人が集まって来て金を恵むのとは動きの点で異なって
いる。ただしジャカルタの都バスに乗り込んで芸を示すケースはヨーロッパの地下鉄で芸
人が芸を披露するのと違わないから、そこに本質的な差異があるようにも思えない。

インドネシアのプガメンの芸は、流しの歌うたいから、バス内での詩の朗読や、住宅地に
グループでやってきてガムラン演奏と歌舞を行う伝統芸能など、さまざまな種類があるも
のの、マジョリティとしてはやはり簡単に一人でもできる歌うたいだろう。

そのプガメンがクーン総督の時代からバタヴィアで行われていたとは、実に思いがけない
話であるにちがいあるまい。クーンが二度目の総督職に就いたあと、マタラム王国のスル
タンアグンが命じた二度にわたるバタヴィア攻略戦の真っただ中で、クーンは殉職した。

マタラム王国軍の第二次バタヴィア進攻が行われた1629年、マタラム軍がやってくる
前にクーンはバタヴィア城市内におけるプガメン行為を全面的に禁止した。

城市内の家々を巡るプガメンの歌う歌詞が、VOC高官たちの女狂いや非倫理的行為を揶
揄批判する内容になっており、おまけに高官の実名まで織り込まれて歌われていた結果、
市政上層部に弾圧の気運が広がり、総督が決断を下した、という歴史家の説明になってい
るのだが、この話を植民地支配者に対するプリブミの反抗の一形態と説くインドネシア人
歴史家もいる。

マタラム王国軍がバタヴィア進攻前に行う神経戦によってVOC側に人心の動揺が起こる
ことは避けなければならないと考えたクーンの対策がそれだった可能性も小さくはあるま
い。バタヴィア城市内の中央を流れるカリブサールで二分された西側地区の南詰はスラム
地区であり、そこの住民がプガメン稼ぎを行った可能性も考えられないではないが、城市
の外側を取り囲んだバンダ人部落、華人部落、インド・アラブ人部落・バリ人部落などか
ら毎日城市内で仕事をするためにたくさんの人間が入って来ていたはずだから、その中に
反バタヴィアのプリブミが潜入することもできただろう。[ 続く ]