「クーンの野望(9)」(2020年11月12日)

二度目の総督職に就いたヤン・ピーテルスゾーン・クーン第6代総督は1629年9月2
1日夜に、マタラム王国軍のバタヴィア包囲攻撃のさ中に没した。時に42歳の働き盛り
だった。死因はコレラとも赤痢とも言われ、あるいは急性胃腸炎と述べているものもあれ
ば、乱戦の中でマタラム兵に首をはねられたというものがあり、さらにはマタラム側の隠
密作戦で連れ去られ、最後に首を取られたという説まで、百花繚乱の花盛りだ。

マタラム軍はチリウン川上流を押さえてバタヴィア城市内に疫病をはやらせるために動物
の死骸や汚物を大量に川に流し込んだ。案の定、城市内ではコレラが大流行したため、ク
ーンがその犠牲者になった可能性ももちろんある。

VOCの記録によれば、クーンは21日夜に病気のため死亡し、翌22日に盛大な葬儀が
バタヴィア政庁舎で催され、クーンの遺体は政庁舎の庭に埋葬された、となっている。 

当時の慣習では、高位高官・社会的有力者の墓は教会の庭に設けられることになっていた
が、政庁舎隣の教会はマタラム軍の砲撃で瓦礫と化していたから、急遽そんな措置が執ら
れた。


インドネシア語情報の中に、クーンは9月20日に死んだと述べられているものがある。
9月20日の激戦ではマタラム軍が城市の堡塁になだれ込んで混戦が展開されたため、ク
ーンがそこにいたなら、クーンの身に何が起こっても不思議でなかったということなのだ
ろう。

インドネシア人にとって憎むべきクーンはそのとき、マタラム兵の刃にかかったかもしれ
ない。あるいはマタラム軍隠密特殊部隊がクーン拉致の密命を帯びて侵入し、混戦の中で
クーンを運よく捕らえて城市外に連れ去り、どことも知れない場所で殺害し、首をスルタ
ンアグンの下まで持ち帰ったという説も語られている。その首はイモギリImogiriにある
マタラム王家の墳墓の入り口階段の下に埋められ、王家の墓参に来るすべての者がクーン
の首を足で踏みつけているのだ、という話に行き着くのである。ジャワ年代記Babad Jawa
にはその隠密作戦が記されていて、クーンの頭蓋骨はイモギリにあるということをたくさ
んのジャワ人が信じている。


オランダ側の記録でバタヴィア政庁舎の庭に埋葬されたクーンはその後、新オランダ教会
(現在のワヤン博物館)が出来上がるとその庭の墓地に移された。ところが、新オランダ
教会が取り壊されたとき、教会の墓地がどうなったのかを公式に説明している記録が存在
しないのである。

新オランダ教会の裏庭は墓地になっていたが、1795年に一杯になったために新しい墓
地がクブンジャヘKebun Jahe Koberに設けられた。現在の石碑博物館だ。バタヴィア城市
南城壁から5キロほど離れており、遺体は小舟で現在情報通信省の裏を流れる濠沿いの場
所あたりまで運ばれてから陸揚げされ、およそ5百メートル離れた墓地まで台車で運ばれ
て埋葬された。埋葬のために遺族と遺体を乗せた数隻の小舟が城市内からモーレンフリー
トに漕ぎ出して行く光景は日常茶飯事だったようだ。バタヴィアはヨーロッパ人の墓場だ
ったのだから。その台車は今でも石碑博物館に遺されているそうだ。

1939年に植民地政庁はクーンの遺骨を探した。クーンの墓とされている場所を掘った
ものの、遺骨は出て来なかった。クーンの遺体がどこに埋められたのかという問題は、い
まだに歴史家の間で論議の的になっているミステリーだ。歴史家たちはイモギリのマタラ
ム王家墓地の階段の発掘を提案しているものの、ソロ王家はその話をまったく相手にして
いないように見える。[ 続く ]