「天女論」(2020年11月13日)

ライター: 短編作家、メディア就労者、レイニー・フタバラッ
ソース: 2016年3月19日付けコンパス紙 "Bidadari"

ジャカルタのサリナ爆弾テロ事件がソスメドの議論や印刷メディアの意見欄に72人の天
女72 bidadariを持ち切りの話題として与えた。72人の天女と天上の花嫁花婿pengantin 
surgaにすればもっと完璧になる。そこに述べられている天女とは地上の現身を持つ存在
でなくて、永遠の美・献身・愛の化身である天上の住人なのである。生命をなげうってイ
スラムに殉じ、天上の花婿になった男のひとりひとりに与えられる褒賞がその72人の天
女たちなのだ。天女たちは全身全霊を込めて天上の花婿に仕えてくれる。

天女を意味するビダダリbidadariはサンスクリット語のvidhyadariに由来しており、ヒン
ドゥの聖典を通してインドネシアにもたらされた。デウィdewiが同義語として使われるこ
ともある。天女たちはイスラム教やキリスト教の天使malaikatと同じように、神々dewa-
dewaの使いの役割を演じてそのメッセージを伝えたり、神通力を持つ優れた男たちが行っ
ている禁欲の行の失敗を謀る誘惑者になったりする。たとえばインドラ神Batara Indraが
たいへん強い神通力を持つバラモン聖者レシ・ウィスワミトラResi Wiswamitraの行を妨
げるためにデウィ・メナカDewi Menakaを遣わした例がある。ウィスワミトラの能力がイ
ンドラ神を畏怖させるものであったために、美しい天女に誘惑させて意志の固さをくじこ
うとした。メナカは他の天女の協力を得て、その任務の遂行に成功した。

男性行者の誘惑者として以外にも、クサトリアが戦いの任務に成功したとき神は天女をそ
の妻として褒美に与えた。無敵の神通力を持つがために神々ですら倒すことができなかっ
たマニマンタカManimantaka王国の王プラブ・ニワタカワチャPrabu Niwatakawacaをアル
ジュナArjunaが討ち取ったとき、デウィ・スプラバDewi Suprabaがアルジュナに与えられ
ている。ヒンドゥの聖典にはもっといろいろなビダダリが描かれている。

友人のひとりがコメントした。神意をまっとうした男に天上からの褒美として天女が与え
られるということは、天上にも家父長制度が存在していることを意味している。輝くばか
りの美しさは、しばしば災いの根になるとはいえ、かけがえのない恵みと見なされている。
別の友人が質問した。天上に昇る女性にとってのビダダラbidadaraはあるのか、と。


国語センターのインドネシア語大辞典KBBI第四版にビダダリは、次のように定義され
ている。「putri atau dewi dari kahyangan」あるいは「perempuan yang elok」。サン
スクリット語ではビダダリの対語として男性名詞形のビダダラが存在しているものの、ビ
ダダラはKBBIに採録されていない。

ビダダラの語形成は、知識を意味するvidhyaと持ち主や運ぶ者を意味するdaraで構成され
ており、ビダダラとは神の明知やメッセージを運ぶ務めを果たす者を意味している。ヒン
ドゥでは、ビダダラはビダダリの対語として使われる。ビダダラの中には、神々のために
巧みに音楽を奏し、歌を唄い、美しい詩を詠む務めを果たすgandarva(ジャワ語に入って
gandarwoになった)もいる。

ヒンドゥ聖典はビダダラよりもビダダリのほうをより目立つ形でしかもヒロイックに描い
ている。しかし功績のあった神通力の優れた男に天上からの褒美としてビダダリが与えら
れたり、その美しさで苦行を行っている男を惑わす誘惑者としての存在は、われわれに誘
惑者イブのイメージを重ね合わさせてくれる。輝く美しさが天上における男への奉仕者と
しての哀しみを覆い隠しているようだ。

ビダダラの分析は、チャンディのレリーフやヒンドゥ聖典の記載に見られるもので十分だ
ろう。ビダダラの語がKBBIやテサモコに採録されていないのも当然だ。サンスクリッ
ト語由来のインドネシア語には、男女形が対語として用いられているものが少なくない。
pramugari-pramugara, mahasiswa-mahasiswi, biksu-biksuni, dewa-dewi・・・
bayangkara-bayangkariという非対語もある。残念ながらbidadariはbidadaraなしで済ん
でいる。