「ヌサンタラのロシア人(終)」(2020年11月24日)

その素晴らしいロシア道路は当初計画の二割しか作られないまま終わってしまった。19
65年のG30S政変がその結果を招いたのである。それは同時に、スカルノの夢だった
首都移転をも粉砕してしまった。

G30S事件の知らせがロシア人技師たちに届くと、かれら全員がすぐさまインドネシア
を離れた。その工事に関わっていたインドネシア人たちも、即座にソ連のプロジェクトと
は無関係であるという風を装った。工事現場は一転して無人の境に変わってしまった。た
とえ一介の労務者でしかなかったとしても、中国やソ連のプロジェクトに関わっていたと
赤狩りの連中に騒がれたら何をされるか分かったものではないし、オルバ行政に政治犯の
烙印を捺されるのも怖ろしい。

その後遺症はいまだに続いていて、2009年にコンパス紙がトランスカリマンタン特集
を組んでロシア道路の取材を行った時も、建設に携わった体験者を探したがほんのわずか
なひとにしたインタビューができなかった。


フルシチョフ首相は1961年にインドネシアを一度訪れている。1962年の西イリア
ン解放戦争では、インドネシア国軍はソ連のバックアップを受けてオランダとの戦争を繰
り広げ、米国の調停によって西イリアンをインドネシアの領土に編入した。

西イリアン解放戦争の勝利を記念して、スカルノ大統領はモナス広場南東の、メンテン地
区北部とスネン地区を結ぶ道路西詰の緑地帯に記念碑を建てさせた。銃を持ち、ジャワの
農夫がかぶるチャピンcaping(編み笠)をかぶって立っているひとりの男とそれに食べ物
を渡しているカインクバヤ姿の女性の像はロシア人彫刻家のデザインと制作によるものだ。

二人のロシア人彫刻家は構想を練る中で、インドネシアで耳にした出征する息子に祝福を
与える母親の話に感銘し、そのデザインを採用した。この像はソ連政府がインドネシアに
プレゼントし、1963年にスカルノの希望通り現在の場所に設置された。公式名称は英
雄の像Patung Pahlawanとなっているが、農夫のイメージが強いことから農夫の記念碑tugu 
taniと呼ばれることも少なくない。


1965年のG30S政変でインドネシアとソ連の蜜月関係は終焉した。ロシアや東欧に
いたインドネシア人学生や社会人に新政権は即時帰国を命じたが、さまざまな事情でそれ
に従わなかった者もあった。赤狩りで行われた大殺りくの噂に帰国を怖れた者もいた。従
わなかった者たちは国籍を喪失し、政治亡命者になった。かれらの運命はインドネシア語
のさまざまな小説の中に描かれている。赤狩りにおけるジェノサイドや故国喪失の被害者
の話は、この民族が担わなければならない伝説となるだろう。

1989年になって、スハルト大統領はソ連を訪問して国交を回復させた。1991年1
2月のソ連崩壊の三日後に、インドネシア共和国はソ連の後継者たるロシア連邦共和国を
公式承認している。こうして両国は互いにイデオロギーを抜きにした国交を展開するよう
になった。

2007年9月5日にはヴラジミル・プーチンVladimir Putin大統領が二日間のインドネ
シア公式訪問を行い、フルシチョフ首相以来、実に半世紀近い空白期間を経てロシアの要
人の公式訪問が実現された。インドネシア側もスハルト大統領のあと、レフォルマシレジ
ームに入ってメガワティ、SBY,ジョコウィ、と歴代の大統領がロシアを公式訪問して
いる。[ 完 ]