「装いのアイデンティティ(1)」(2020年11月25日)

文化が人間の容姿を決める。生まれたときからそれを見慣れた人間が、その装いを自己の
アイデンティティの一部として深層意識の中に刻み込む。こうして、装いが一民族のアイ
デンティティとしての地位を得ることになる。中でも頭髪は、個人の看板である容貌の一
部を構成するものであったがために、ヘアスタイルは重要な文化要素に位置付けられてき
たようだ。清時代の弁髪や、月代をそって髷を結うニッポンサムライの丁髷などはその典
型だろう。

侍の髷と言えば、オランダ連合東インド会社VOCの歴代総督肖像画に描かれている第7
代総督ジャック・スぺクスJacques Specxの顔をよく見ると、かれは侍髷をしていたよう
な印象を受ける。その点に言及しているネット情報が見当たらないので、その主観的印象
を仮にそうであるとしてこの話を続けよう。

↓ 第7代総督の肖像画はこちら ↓
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jacques_Specx_(geb._1588)._Gouverneur-generaal_(1629-32)_Rijksmuseum_SK-A-4530.jpeg
他にも、Jacques Specxで画像検索をかけると、かれの肖像画がいくつか出て来ます。


1609年にVOC平戸商館が設けられた時に初代商館長として赴任したジャックはたい
そうな日本びいきになり、1613年に後任者と交代したものの、VOC最高の日本通と
なったかれは1614年に第3代商館長として再び日本に赴任して、1621年までオラ
ンダ平戸商館最高責任者の立場から対日交易の采配を振り続けた。この会社の中に、日本
人というものをもっとも深く知悉し、かれらの心情や思考法とその論理を理解している者
は自分をおいて他にないというのがジャックの自負だったのではあるまいか。

もしもかれが平戸商館長の時期にかぎって丁髷頭をし、バタヴィアに戻ってからは当時の
オランダ人がしていた普通のヘアスタイルに戻したのなら、平戸時代のそれは戦術的行為
だったと誰もが解釈するだろう。ところがその丁髷頭をVOC総督の時期まで続けていた
のが事実であったのなら、話は全然違ってくるように思われる。

日本を心から愛したかれはかりそめの妻にした平戸の女性をも誠実に愛し、日本文化の中
にわが身を置いて日本人に同化しようと望む心情を抱いていたのではないかという気がわ
たしにはするのである。平戸在任中にかれは日本人女性を現地の妻にして家庭を営み、1
617年に娘を得た。1621年にバタヴィアへの異動辞令が届くと、かれは自らサラ
Saraと名付けたわが娘を連れてバタヴィアに移った。

1622年にはバタヴィアの参事会頭兼参事会議員となり、1624年には教会諮問会の
政治コミッショナーに選ばれた。1627年にVOC本社重役会ヒーレン17は平戸での
経営に関する審問を行うため、かれをアムステルダムに召喚した。

そのとき、アジア人との混血児をオランダに入国させるのがたいへん困難だったために、
父は最愛の娘をクーンとエヴァの総督夫妻に預けた。エヴァはこの10歳の少女の養育を
面倒見ようと思ったらしいが、総督の私生活におけるお客様待遇はなされず、エヴァの小
間使いにされていたようだ。

父親がバタヴィアに向かってオランダを去ったのは1629年1月、バタヴィアに戻った
のは1629年9月23日であり、クーンはその二日前の9月21日にマタラム軍の包囲
攻撃の中で急死していたため、9月25日にジャックは臨時に総督代行の職務を掌握した。


かれのバタヴィア帰着のほんの少し前に愛娘がとんでもない事件に遭遇してしまったのは、
父親にとって不運としか言いようがなかったのではあるまいか。その事件とは若者男女の
婚外性行為がクーンの眼前で発覚したことである。

父親と一緒にカスティルの外にあるVOC高官の邸宅に住んでいれば、その事件は起こる
確率がたいへん小さいものになっていたはずだ。たとえ万が一起こったとしても、クーン
に現場を押さえられるようなことになるはずがない。

1629年6月17日の夜にサラは、カスティル内にある総督館内の自室でカスティル守
備隊の下級兵士ピーテル・コルテンフフPieter J Kortenhoefと情事を演じていた現場を
クーンに押さえられたのである。この事件の詳細は拙作「バタヴィア港」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html
をご参照ください。
[ 続く ]