「装いのアイデンティティ(終)」(2020年11月30日)

インドネシア共和国が独立し、世界中がイデオロギーに染まった時代を反映してオルラレ
ジームもナショナリズムの盛り立てに躍起になった。民族のアイデンティティを国民はど
んな容姿で描き出せばよいのかという問題だ。インドネシア民族としての個性を反映する
容姿はどうあるべきかというのが議論の焦点であり、国家指導者の理想にそってチャラチ
ャラした欧米風のものへの嫌悪感が醸成された。

1950年にイブ・ドゥウィジョは西洋風の髪型や服装を強く批判し、その記事は全国週
刊誌に毎週掲載された。短髪の女性はまともな脳みそを持っていないとまで酷評されてい
る。そして国民教育はパンチャシラと国家憲法に沿って、国民に正しくあるべき容姿を教
育しなければならない、とも論じた。

スカルノ大統領が1963年に民族の統一性・対等性・全体性の構築を使命とする民族統
一育成機関をルスラン・アブドウルガニを指導者として開設すると、アンチ西洋国民運動
は大規模社会運動へと発展した。1964年にはジョグヤカルタJogyakarta女性組織運動
が発足して西洋式ヘアスタイルとミニスカートを拒否する陳情行動を展開した。

1964年には当時の世界で若者層の神様のように扱われていたビートルズをインドネシ
ア政府が拒否し、世界的な大流行を起こしたビートルズ風ヘアスタイルを禁止し、「ビー
トルズ頭の国民がいれば、丸坊主にしてしまえ。」と大統領が檄を飛ばしたから、そのヘ
アスタイルの国民を警察が捕らえて髪を切る倫理警察行動が当たり前のように行われた。
お上の意向を怖れずにビートルズの歌を唄った国民的人気バンド、クスプルスKoes Plus
が告訴されて裁判が行われ、有罪にされて刑務所入りした事件も起こった。その事件は起
訴を裁いた判事のスタンドプレーという見解が一般的だ。


反オルラレジームを基盤に置いたスハルトのオルバ政権も、1970年代に長髪男子の取
締りを行った。ゴンドロンgondrongと呼ばれた男子の長髪は既成社会規律に反抗する自由
のシンボルとされていたが、オルバ政権はそれを反政府気分の表出という面からとらえた
のである。

オルバレジームに入ってからは、短く刈り上げたヘアスタイルが公共スペースにおける国
民的倫理性を反映するものという受け止め方が社会で有力になって行った。つまりは、そ
れが民族アイデンティティを反映する国民の容姿であるという観念だ。もちろんそれはオ
ルラレジームのようなイデオロギー色を持たない、もっとソフトな一般常識としての観念
になっている。

その一方で、昔からヌサンタラの地を彩っていた長髪への回帰を志向するひとびともいる。
わたしはバリ島でその種の若者を何人か知っているし、ジャワ島でも似た姿のひとびとを
目にしている。長髪姿から威嚇感を受け取るのは、わたしだけなのだろうか?


日本でマンボズボンと呼ばれた先細りのズボン(インドネシアではジェンキーjengkiと呼
ばれたようだ)や反対にベルボトムと呼ばれた先広がりのズボンも、オルラは敵視した。
街中でジェンキーズボンの検問が行われて、警察や憲兵隊は空のビール瓶と鋏を持ち、先
細りのズボンを履いている市民を捕まえてはズボンの裾の幅をチェックした。足首からビ
ール瓶を差し込んで入れば無罪放免、入らなければ有罪ハサミカットの刑が即座に行われ
たのである。

西洋式の踊りも敵視され、ツイストのような腰振りダンスは不良とされた。ヌサンタラ古
来の踊りなら善事であるとされて、アンボンやスラウェシの伝統的踊りがもてはやされ、
スカルノが娘のメガワティと一緒に踊っている姿も新聞を飾った。

女性の腋の下が露出される服装はyou can seeと呼ばれて不良女の服装と決めつけられ、
頭髪を上方にふわりと膨らませるササッヘアーrambut sasakも敵視されて、街中にユーキ
ャンシーやササッ姿で出かけるといつどこから「ガニャンユーキャンシー!Ganyang you 
can see!」「ガニャンササッ!Ganyang sasak!」と叫び声を浴びせられるかしれないため、
女性の外出は減り、またみんなが目立たないような姿で外出するようになって、街中から
華やかさが消えた。[ 完 ]