「植民地軍解散(2)」(2020年12月02日)

その後、植民地政庁のジャワ島外への進出と平定方針が強められて兵力強化が急務とされ、
1840年の戦闘員2万人は1882年に3万人となり、1898年には4万2千人に膨
れ上がっていった。言うまでもなく、その膨大な数のマジョリティはプリブミで占められ
ていた。

発足当初はただの植民地軍でしかなかったが、1836年になってオランダ本国が公式植
民地軍としての王国の名称を冠することを認めた結果、KNILができあがったのである。
ファン・デン・ボシュ総督が行った東インド植民地軍創設は、1825年に始まって18
30年まで続いたディポヌゴロ戦争の影響を強く受けたものだった。ディポヌゴロの反乱
は、イギリス東インド会社軍が去ったあと、イギリス軍を補強していた旧ダンデルス軍人
たちが編成した軍隊の手に余る敵だったのである。

オランダ本国に支援要請が飛び、兵役義務下の国民を植民地に派兵することが禁止されて
いた政府は急遽ヨーロッパ域内で傭兵の募集に努めた。オランダ王国軍を派兵できないの
だから、兵隊を募集して東インドに送り込むしか支援のしようがなかったということだ。
一説ではオランダ王国軍兵士で、軍法会議で有罪を宣告された者に対して、服役するかそ
れとも退役して植民地軍兵士になるかという選択をさせるようなこともあったらしい。

ベルギー人貴族が応募して1826年3月25日にバタヴィアに到着した例もある。この
人物は後にメモワールを書き残したそうで、それを読めば東インド植民地軍発足直前の状
況がよくわかるかもしれない。

ともあれ、発足当初の状況がそんなありさまだったから、東インド植民地軍もVOC軍と
似たような様相を呈しており、フランス人・ドイツ人・ベルギー人・スイス人・デンマー
ク人・スエーデン人などオランダの近隣諸国人が大勢含まれていた。そしてその姿はKN
IL解散の時まであまり変化しなかった。

アチェ戦争のころの兵員募集では、月給3百フルデンという、労働者の年間所得レベルに
相当するたいへんなツリが語られたそうだ。ところがいざ東インドにやってきたら現実は
大違いだったという話もある。


ダンデルスが作ったヴェルテフレーデンのスネン寄りのエリアは第十大隊Batalyon X兵舎
が置かれたところであり、アンボン人の多い地区はカンプンアンボンと呼ばれた。第十大
隊司令部は現在ホテルボロブドゥルが建っている場所にあった。

部隊員の全数をヴェルテフレーデンの中に収容できなかったためだろう、居住地区は数カ
所に分散された。ストヴィアSTOVIA校舎、クウィニKwini通り、クラマッKramat 7通り、
ビダラチナBidaracina地区、マトラマンMatraman通りのベルランBerlan地区などだ。

クウィニ通りに最初に住んだのはティモール人で、かれらは巨大な建物の中に大勢が一緒
に住んだ。その建物は今でも残っており、ティモール人の子孫たちが今もそこに住んでい
る。アリ・サディキン都知事の時代に196世帯を含む1千人超の元第十大隊兵士が西ジ
ャカルタ市チュンカレンの湿地帯に移住させられた。今ではチュンカレンのカンプンプル
マタがカンプンアンボンと呼ばれている。

アンボン人がストヴィアに住んだころ、校舎敷地南縁にはシロSilo教会があった。そこは
現在民族決起博物館Museum Kebangkitan Nasionalの会議室に変わっており、アンボン人
はシロ教会をカンプンプルマタに移転させている。

アンボン人はストヴィアの教室を居所にして住んだ。ひとつの教室に窓が三つドアが二つ
あると、5家族用に仕切られた。窓が三つドアがひとつの教室は4家族用だ。大きい板が
仕切り壁に使われた。必然的に三つの窓に面している住居はその窓から出入りすることに
なる。たいてい木製の階段踏み台が窓の内と外に置かれた。そこでの暮らしを体験したひ
とは、住居に出入りするたびに「なんか、泥棒みたいね。」とよく言っていたそうだ。
[ 続く ]