「植民地軍解散(4)」(2020年12月04日)

共和国の紅白旗を掲揚したり、紅白のバッヂを身に着けている者は謀反組織の一員あるい
はシンパであることを宣伝しているようなものだ。その見方がKNILの巡邏隊をして、
街中で見つけたブリキのバッヂを身に着けている者を捕らえて制裁を行い、バッヂを飲み
込ませるような仕打ちに向かわせた。

カンプンでは紅白旗を立てている家々を襲って住民を引きずり出し、家に火をかけ、反抗
して来る者を射殺した。一部落を焼き尽くす事件もあちこちで起こった。KNILに射殺
された者の葬列が墓地に向かっているとき、通りかかった巡邏班が葬列にトミーガンの連
射を浴びせて多数の死者を出したこともある。サンダース軍曹のやることとは違う。巡邏
隊の白人隊長は往々にして、「動くものがあれば撃て。」という命令を部下に与えた。つ
まりは無差別銃撃命令である。

KNILのプリブミ兵士が主体になって行っているそれらの行為を治安維持行為と言うの
はオランダ側のセリフであり、共和国側プリブミにとってはテロ行為そのものだった。共
和国側プリブミがお返しをしないはずがない。こうして、プリブミ同士の間でテロの応酬
が延々と繰り返されたのである。


1947年12月9日早朝、アルフォンス・メイネン少佐率いる3百人のKNIL部隊が
西ジャワ州カラワン県ラワグデ村を急襲した。共和国軍の作戦を事前に打破し、さんざん
頭を悩ませてくれた敵指揮官を血祭りにあげるのがその行動の目的だった。

シリワギ師団中隊長ルーカス・クスタルヨ大尉の指揮下に行われる共和国軍の作戦行動に
よってKNIL側の武器兵器輸送が何度も襲撃され、重要な武器兵器が共和国側に渡るこ
とが起こっていた。

そのとき、12月8日にルーカス大尉がラワグデ村に入って9日に行うチリリタン襲撃の
作戦準備を行っているという情報をKNIL側はつかんでいた。ラワグデ村は普段から複
数の反オランダ武力闘争民間グループがそのネットワークを置いていた場所であり、KN
ILにとっては敵本拠地のひとつと見なしていた村だった。ラワグデ村にいる男たちが敵
戦闘要員であるとKNIL側が考えるのは当然の成り行きだろう。

ルーカス大尉を血祭りにあげる必要があったわけだが、ラワグデ村でルーカス大尉を発見
することはできなかった。KNIL部隊指揮官は村人を全員集めさせ、ルーカス大尉の居
場所を白状するようひとりひとりに質問した。そして「知らない」と答えた者、沈黙を続
けた者を射殺させた。

そのときの状況についてはまた別の話があり、村人をグループに分けてしゃがませ、問答
無用で銃弾を浴びせかけた上、更に捜索犬を使って川岸の藪に隠れた村人を追跡し、隠れ
場所を銃撃したため、たくさんの死体が川に浮かび、川の色が赤くなったというものだ。

目撃者の追想によれば、殺りくされた者のほとんどは16歳から上の男たちだったそうだ。
そのあと、ラワグデ村の百軒を超える家屋が燃やされ、村の中の死体は川に投げ込まれた。
殺された人数は諸説あるのだが、村人の語り伝えている数字は431人だったそうだ。


1948年、詩人ハイリル・アンワルが「カラワン〜ブカシ」と題する詩を発表した。
「今、カラワンとブカシの間に横たわっているわれわれには、ムルデカの叫びも武器を手
にすることもできない」で始まり、「われわれを思い出してくれ。埃にまみれた骨ばかり
のわれわれを。カラワンとブカシの間に横たわっている幾千ものわれわれを。」で終わる
この詩を、ラワグデ虐殺事件からインスピレーションを得て作られたものではないかと論
じる詩評は少なくない。[ 続く ]