「食の多様性の誇りと現実(16)」(2020年12月07日)

アジアへのジャガイモの伝播を調べてみたところ、ジグソーパズルを完成させるのはなか
なか容易でないことが判明した。まずヨーロッパ人の先駆けであるポルトガル人がジャガ
イモをアジアで手にしている姿がもやの中に溶け込んでいるのである。

1557年、ポルトガル語レキシコンにbatata(ジャガイモ)が掲載された。つまりたい
ていのポルトガル人が認知し、使っている単語になっていることをそれが示している。

アジアへのジャガイモの渡来は16世紀にヨーロッパ人がアジア沿岸部に、ロシア人が同
じころ中国大陸中央部に持って来たというオーセンティックな説明を噛み砕くと、16世
紀に世界の海を支配していたのはイベリア人たちであり、北の海からやってくるひとびと
が個々の勢力として世界の海を押し渡るようになるのは17世紀だから、その説明のヨー
ロッパ人をイベリア人と同一視して良いかもしれない。


16世紀にポルトガル人はアフリカを回ってインドへ、マラッカへ、マルクへ、中国へ、
日本へと進出して来た。ポルトガル人が日本にはじめて到着したのは1541年7月27
日に豊後国神宮寺浦に漂着したポルトガル船(あるいは明船に乗ったポルトガル人)が事
始めで、種子島鉄砲伝来の故事で史上名高いポルトガル人漂着はそれに数年遅れた154
3年のことだ。日本とポルトガルの国交の実質的スタートは1550年平戸のポルトガル
商館開設と見ることができよう。

アフリカへのジャガイモの伝来はポルトガル人奴隷貿易者が奴隷の食糧として持ち込んだ
のが事始めだとされており、ポルトガル人がジャガイモを手にしている姿をそこに見出す
ことができる。ところがインドのジャガイモの起源を調べるとイギリス人が登場して来る
し、中国沿岸部はオランダ人が顔を出す。日本だけはポルトガル人の姿がぼんやりと映っ
ているのだが、日本の常識はそれをオランダ人だと言っており、確信が持ちにくい。

日本の文献学では、ジャガイモの到来年は天正4年(西暦1576)、慶長3年(西暦1
598)、慶長8年(西暦1603)などで、その年号のいずれにもオランダ人が登場す
る。ところがオランダ人来航史をひもとくと、オランダ船がはじめて日本にやってきたの
は1600年4月19日のリーフデ号となっていて、その難破船は豊後国佐志生(今の大
分県臼杵市)に漂着しており、難破船乗組員がわざわざ大分県の住民には隠して長崎まで
芋を紹介しに行くような余裕を持っていたとは思えない。

その後オランダ人が1609〜1641年に商館を開いて常駐するようになるのは平戸で
あって長崎ではないが、それはともあれ、日本にジャガイモを紹介したのがオランダ人だ
という説は上の通りつじつまが合っていないのが明白だ。これもまた日本のはてな常識の
ひとつと言えるだろう。

実に多くの先覚者たちが「オランダ人ではない」「オランダ人ではない」とつぶやいてい
るにも関わらず、オーセンティックな日本常識を掲げる人たちがまったくそれを相手にし
ていないのはいったいどういうことなのだろうか?知性への誠実さはどこへ行ってしまっ
たのだろう。

上のジャガイモ到来年に日本に来ていたヨーロッパ人とはポルトガル人だけだったと思わ
れ、つまりはポルトガル人が日本にジャガイモを持ってきていたのだから、インド・マラ
ッカ・マルク・中国にどうしてジャガイモを手にしているポルトガル人の姿が見えないの
かが不思議でならないことになる。日本で起こっているのと同じように、本当はポルトガ
ル人であるにもかかわらず、各国の秘密結社が煙幕を張ってポルトガル人の歴史上の功績
を闇に葬ろうとでもしているのだろうか?

ジャガイモを持つポルトガル人の姿がアフリカと日本で見つかったとしよう。インドから
中国までの間で、同じようなポルトガル人の像が見つからないのは実に不可解きわまりな
いようにわたしには思えるのである。ポルトガル人が1505年以来のコチンやゴアで、
1511年以来のマラッカで、1553年以来のマカオで、かれらは本当にジャガイモを
手にしなかったのだろうか?[ 続く ]