「食の多様性の誇りと現実(17)」(2020年12月08日)

もちろん栽培しなくてもかまわないのだ。他の食糧でやっていけたのであれば、それらの
領有地で他の食糧を作れば済むことなのだから。だが船に乗っている連中の食糧はどうす
る?16世紀にスペイン船隊に乗組んだバスク人が航海食としてジャガイモを船に積んだ
という話が実際に物語られている。ポルトガル船乗組員が同じことをして悪かろうはずは
あるまい。ポルトガル船がアジアの各基地に寄港すれば、新鮮な食糧が積み込まれる。ポ
ルトガルでジャガイモを積んだのであれば、ゴアでもマラッカでもマカオでもそれを積む
ために栽培が行われるほうが自然ではないのだろうか。ポルトガル船が日本に届けたジャ
ガイモがポルトガル本国の産だったとは考えにくいように思うのはわたしだけだろうか?


16世紀に地球を二分したスペイン人の方はどうだったのか。マゼラン船隊の世界周航の
あと、メキシコのスペイン人はマゼラン船隊が関係を結んだ北マルクのティドーレ王国に
やってきて要塞を建設し、ティドーレの対テルナーテ戦争を支援した。それはテルナーテ
をバックアップしているポルトガルとの戦争でもあった。

1527年ごろから始まったスペインのその動きは、比較的近いマラッカに根拠地を持つ
ポルトガルに比べて本拠地をメキシコにしているスペイン側に圧倒的に不利なものだった。
スペインは1545年までティドーレに固執したものの、ポルトガル人に追い払われてし
まう。

方針を変えたスペインはフィリピン領有に力を注ぎ、1565年にセブ島を征服し、支配
領域を拡大しながら1571年にマニラを建設してそこに首都を設けた。こうしてマニラ
とアカプルコの間を結ぶスペイン船の定期航海が始まる。

船はマニラから南シナ海を北上し、台湾海峡を抜け、日本近海をかすめて太平洋を東航し
たようだ。折りしも、1580年にスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合が始まっ
たため、スペイン船もマカオなどのポルトガル基地を利用できるようになったはずだ。同
君連合は1640年まで続いたが、そのおかげでスペインは既得権を持つポルトガルに対
日交易を一任し、自らは日本との交易に入らないようにした趣が感じられる。

それが正しければ、ポルトガル船が寛永16年(1639)の長崎到来を最後にしてキリ
スト教禁令のために以後の来航を禁止されたから、同君連合が終わったとき、スペインが
日本に足場を持つ機会は永遠に失われたことになる。

スペイン船が日本に到来した事始めは、マニラからアカプルコに向かっていた船が160
9年上総国岩和田村に漂着したのを嚆矢とする。1611年にメキシコから答礼のための
船がやってきて、日本人使節団を伴ってメキシコに戻った。

スペイン人の初来日として有名なフランシスコ・ザビエルはポルトガルのイエズス会に所
属し、ポルトガル宣教者としてゴア・マラッカ・アンボンなどで業績を上げ、その延長線
上で日本に到来した人物だ。1549年8月のザビエルの鹿児島上陸を来日スペイン人の
事始めと捉える見方は、かれがポルトガルの枠内で行動していたという環境と共に理解す
るのが自然だろうと思われる。ザビエルの日本行きに関しては、ポルトガルがその保護を
担う立場にあったということなのだから、それをスペインと日本間の民族的国家的関係の
始まりと見るのは不適切だろう。


スペイン人のジャガイモはどうだったかと言うと、これも曖昧模糊として訳が分からない。
フィリピンにサツマイモを広めたのがスペイン人だったという情報が見られるだけで、ジ
ャガイモについては言及されていない。サツマイモに関しては、ポルトガル人もサツマイ
モをアジアに広めたという情報が見つかっていて、あたかもポルトガル人はジャガイモの
伝播に興味を示さなかったような話になっている。

それはともかく、スペイン人も天正4年(西暦1576)、慶長3年(西暦1598)、
慶長8年(西暦1603)に日本にいなかったのだから、日本へのジャガイモ到来はポル
トガル人の可能性しか残らないのではないだろうか。[ 続く ]