「植民地軍解散(終)」(2020年12月08日)

日本軍のジャワ島占領時にかれはオーストラリアに逃れ、オーストラリアでオランダ諜報
機関NEFISに加わり、1944年にNEFISのダイレクターになっている。日本の
敗戦後、かれは東インドに戻り、KNILの司令官として植民地軍の機構改革と日本軍に
敗れたために起こった士気の低下の立て直しに尽力した。43歳で常設軍最高指揮官であ
る総司令官になったとき、かれは大佐から中将に特進している。

独立を宣言したインドネシア共和国が宗主国に歯向かってくることがスプールには許せな
かった。かれにとって、インドネシア共和国を標榜している連中はテロ組織でしかなく、
軍事力を使ってテロリストたちを徹底的に叩きつぶすことがかれの方針になった。そのた
めにかれはテロ組織を壊滅させるための大規模軍事行動を二度行っている。オランダ側の
ロジックはテロ組織壊滅のための警察武力行動とされたが、共和国側にとっては軍事行動
そのものだった。

更にテロ組織の先鋭的勢力をプリブミ社会から切り離すために、民族主義勢力の穏健派を
抱き込むこと、そして国際世論に対して今起こっている状況の構図を理解させるよう外交
手段を使うことなどが、スプールが1949年まで続けた基本方針だった。スプールが推
し進めた軍事力による攻めの一手はフィジカルなパワーと経験の圧倒的な差のおかげで共
和国側との戦争を常勝無敗のものにしたとはいえ、住民の間に姿を隠して行われるゲリラ
戦に手を焼き、自分のライバルになった共和国軍司令官スディルマン将軍を「将軍になっ
た校長先生」と評して嘲った。その言葉の中には賛辞も混じっていると見るインドネシア
人もいる。


スプールの軍事攻勢とファン・モークの連邦共和国設立によるインドネシア共和国側の切
り崩しにスカルノとハッタを首脳とするインドネシア共和国側は大いにかく乱された。し
かしモークの方針に乗って連邦共和国構成国の代表者の椅子に座ったプリブミ有力者たち
は、最終的にオランダ本国が手を引いたことで失速し、墜落して行った。

皮肉な見方をするなら、スプールとモークがあれだけ国家のために頑張ったにもかかわら
ず、オランダ政府は結局かれらの努力と功績を無にしてしまったと言うことができるだろ
う。その史観が、歴史の趨勢を見極めることのできなかったふたりの人間の失敗であると
いう見解に向かうのである。

クラウゼヴィッツの戦争論を愛読し、ナチスドイツの規律と士気の旺盛な国民像を見習う
べき教えとして賞賛していたスプールは、オランダ人が東インドを永遠に支配することを
望み、本国政府の東インドに対する倫理政策をただの甘やかしと見なして、反抗者を作り
出すだけのものでしかないとその政策に反対した。日本が作ったインドネシア共和国を祭
り上げているテロリストたちへの戦争は日本に対する報復戦だという考えすらかれは抱い
た。

スプールに時代の趨勢を覚らせることのできるできごとがなかったわけでもない。日本軍
を送還したあとの東インドの政体を軍事政権にするという構想をかれは本国政府に提案し
たものの、閣議はその構想をまったく相手にせず、NICA(Netherlands Indies Civil 
Administration)による植民地行政形態を固守した。あるいはまた、NICAとインドネ
シア共和国との種々の交渉の場にかれが出席を誘われることも起こらず、そしてついに1
949年5月25日のルム=ロイエン協定によってインドネシア共和国への主権移譲が合
意され、かれの挫折にとどめが刺されてしまった。

かれ自身が愛国精神の発露として理想にしてきたあらゆるものを、歴史の大きな流れに方
向性を与える立場のひとびとがだれひとりとして取り上げようとせず、終には見捨てられ
て落ちこぼれ、本流とは異なる方向へ流れ去って行ったのである。

かたくなに敵視と憎悪を向けて来る敵軍総司令官の、時代を読めない人間像にインドネシ
ア共和国側も十二分に気付いていたようだ。共和国側がKNIL兵員に向けた撒いた宣伝
ビラのひとつにはオランダ語でこう書かれていた。「オランダ軍兵士たちよ。あなたがた
は間違っている道をスプール将軍に従って歩いているのだ。」
[ 完 ]