「食の多様性の誇りと現実(18)」(2020年12月09日)

日本の常識がジャガイモ到来のご本尊に祭り上げたオランダ人はどうだったのだろうか?
オランダ人の本国での食習慣についても、ジャガイモ到来後もオランダ人はパンとニシン
を常食し、一世紀以上を経てジャガイモが徐々に食糧のひとつになり上がって行った、と
いう説明をするひとがいる。つまりオランダへの到来の初期にジャガイモは人間の食べ物
という待遇を与えられず、家畜飼料がメインの用途になっていて、まともな人間の食べ物
でないように扱われたことをその話は匂わせているのだが、その一方でオランダ人が台湾
海峡澎湖島を領有した1622−24年の間、かれらはそこで食糧としてのジャガイモを
栽培し、その後台湾に移ってからの1624−62年にもそれを継続したという記録も見
つかる。その影響で福建省沿岸部にジャガイモ栽培が広まって行き、ジャガイモの中国語
名称の中に土豆・馬鈴薯・荷蘭薯などがあって、オランダ芋という名前が残されているこ
とと整合する。

澎湖島の話が本当であるのなら、オランダ要塞の内外で栽培されたジャガイモは人間が食
べるために育てられていたものだったのだ。であるなら、要塞に住むオランダ人VOC社
員たちはその時代にオランダ本国で人間の食べ物でないとされていたものをアジアの果て
で食べていたという構図にならないだろうか。

VOC社員は贅沢三昧の暮らしに憧れてその会社に入った者が圧倒的に多く、その種の精
神構造の人間が本当にそこまで我慢したのかどうか、つまり価値観の面でそのような自尊
心にからむ悲惨さを耐え忍んだのかどうかということになると、わたしにはまるで自信が
なくなってしまう。

インドネシアにおけるジャガイモ栽培の最古の文献情報は1794年の西ジャワ州チマヒ
Cimahiで、それからプリアガンPriangan地方にジャガイモ栽培が広がって行ったそうだ。
1812年には中部ジャワのクドゥKeduでジャガイモが売買されていた記録がある。

一方、スマトラでは北スマトラ高原部で1811年から栽培され、バタッ人はジャガイモ
をkentang Holandaと呼んだ。だからヌサンタラにおけるそれらのジャガイモ栽培の歴史
はその陰にオランダ人の存在を十二分に感じさせるものになっている。


現代インドネシア語でジャガイモはクンタンkentangになっているが、上のバタッ人がジ
ャガイモを「オランダのクンタン」と呼んだという話は不思議の念を誘ってくれる。そう
であれば、バタッ人はオランダ人がジャガイモを紹介する以前からクンタンというものを
知っていて、それに似ている印象を受けたために「オランダのクンタン」とジャガイモを
呼んだような経緯を感じることになる。

ある情報でクンタンはマレー語だと述べられているのだが、現代マレーシア語辞典ではジ
ャガイモがその語義とされていて、他の意味は示されていない。どうやら、ジャガイモの
到来より前にヌサンタラのひとびとが知っていたクンタンとは現在、黒クンタンkentang 
hitamという名称で呼ばれているColeus rotundifoliusで、アフリカ原産のこの芋がイス
ラム商人によってインドまで伝播されていたのをポルトガル人がコロマンデル海岸で「発
見し」、それをヌサンタラに伝えたというのがその由来だそうだ。インドでは現在それが
Chinese potatoと呼ばれているそうだが、ポルトガル人が見つけたころにそんな名前があ
ったとは思えない。

ヌサンタラの各地ではゴンビリ・クンビリ・クンタンなどの名称が用いられた。だからオ
ランダ人がジャガイモを紹介したとき、バタッ人はそれをオランダのクンタンと呼んだの
だろう。元々違う物品を指していた言葉が新規にやってきた類似のものにも使われ、形容
詞でそれが区別されていたものが、そのうちに現実生活の中での力関係の変化にともなっ
て最終的に有力になった新規のものが母屋を奪い、昔からあったものが区別のための形容
詞を与えられて使われるようになるという栄枯盛衰の実例をわれわれはクンタンという言
葉に見ることになる。

クンタンの同義語としてインドネシアではubi belandaやubi benggalaも使われる。オラ
ンダは無理がないとして、ベンガルという地名はヨーロッパ人がベンガル人に紹介したも
のがめぐりめぐってインドネシアに伝わった印象を受ける。[ 続く ]