「食の多様性の誇りと現実(終)」(2020年12月10日)

「食の多様性の誇りと現実(終)」(2020年12月10日)
オランダ人がジャワやスマトラでジャガイモを栽培させた事始めが上に記した年代だった
とするなら、澎湖島でVOCが栽培したのと年代があまりにも離れすぎているように思え
ないだろうか。澎湖島や台湾でVOC社員はジャガイモ栽培を行ったが、本拠地のジャワ
ではまったくしなかったということが本当にあり得るのだろうか?調べれば調べるほど、
ジグソーパズルの絵柄は奇怪な像を描き出してくれるのである。


日本語のジャガイモの解説には、1598年にジャワ島のジャガタラを経由してオランダ
人が長崎に持ち込み、ジャガタラの名を付けてジャガタライモ、それが短縮されてジャガ
イモになった、と記されている。だが上で分析したように、その解説には歴史面で誤りが
ある。語義説明をするのなら、何年にだれがどこからどこへといった誤った歴史など書き
込まずに「ジャワ島のジャガタラを経由して日本に伝来し、ジャガタラの名を付けてジャ
ガタライモ、それが短縮されてジャガイモになった」という語義だけを示す方が国民をも
っと利口にするだろう。日本民族はもっと「はてな常識」を減らす努力をするべきではあ
るまいか。

ジャガタライモという名称をジャガイモ到来起源の経緯と同一視する必要などどこにもな
いのである。ポルトガル人がジャガイモを日本に紹介したとき、ポルトガル人はそれをバ
タタと呼んだはずだ。外国人が新来珍奇な品物を日本人に教えた時に日本語名称まで作っ
て添えてくれたという発想は少々異常ではないかと私には思われる。

万が一そんなことがあったと仮定しても、ポルトガル人にとってのジャガタラはキリスト
教の不?戴天の敵イスラム教徒が領有するジャヤカルタだったことを忘れてはなるまい。

実際にマラッカのポルトガル人がヒンドゥブッダのスンダ王国からスンダクラパ(カラパ)
に要塞建設のための土地をもらったものの、いざ要塞建設のためにやってきたときは時す
でに遅く、スンダクラパはバンテンのイスラム勢力に奪われてイスラム化していた。やっ
てきたポルトガル人はイスラム軍に追い散らされて、ほうほうのていでジャヤカルタを逃
げ出した。そのときの戦争がヨーロッパ人を駆逐したプリブミという姿でジャカルタ史の
1ページを現在までも飾っている。

ジャヤカルタは誕生からクーンに滅ぼされるまでバンテン王国の属領でしかなく、大国際
交易港としてのバンテン港を補佐する機能しかバンテン王国はジャヤカルタに持たさなか
った。VOCが目を付けてからクーンがそこを奪取するまでの十年足らずの期間がジャヤ
カルタの激動期であり且つ黄金期だったように思われる。それ以前の時代にポルトガル船
が交易に向かったのはバンテン港であり、ジャヤカルタではなかったはずだ。ポルトガル
人にとってジャガタラはたいして意味のある土地でなく、必然的にその地名も意味のある
言葉ですらなかった。ポルトガル人が基地にしなかったジャガタラにジャガイモがあった
はずもあるまい。

ポルトガル人が日本に持って来たジャガイモはジャガタラを含んでいないポルトガル商業
ネットワークのどこかから運ばれて来たと考えるのが妥当だろうとわたしは思う。つまり
ポルトガル人がジャガタライモという名前の物品を日本に持って来たのでなく、その物品
を別の名前で日本に初めてもたらしたのがかれらだっとというのがわたしの推論である。

だから現在ジャガイモと呼ばれている物品の日本伝来の起源はポルトガル人として良いと
思われる。そのポルトガル人が持ち込んだ芋と同じものをオランダ人も日本に持って来た。
ポルトガル人が日本から追い払われ、日本にやってくる唯一の西洋人がオランダ人に替わ
った後、オランダ人がジャガタラから持ってくるその芋を日本人はジャガタライモと呼ぶ
ようになった。そのような変遷が推測される。

そのような変遷を無視して短兵急に物品名称と言葉の由来とそこに関わる補助的情報を物
品の起源にまとめあげてしまったのがジャガイモに関する日本のはてな常識であるように
思えてしかたない。わたしのこの意見も、「オランダ人ではない」ささやきのひとつとな
って、時の波間に沈んで行くのだろうか。[ 完 ]