「オランダ人引揚者の苦難(2)」(2020年12月10日)

特にインドネシア政府が行ったオランダ資産の接収がたくさんのひとびとの職場と経済活
動を奪ったことから、インドネシアで食べて行けなくなったひとびとのたどる道は決まっ
ていたと言えるだろう。オランダ系企業がヌサンタラの地から一時期、まったく姿を消し
てしまったのである。

政府がオランダを敵視して資産を没収するくらいだから、インドネシア人民衆の一部が示
す社会的な敵視もかれらにとって居心地の悪い状況を作り出した。外見を見ただけでオラ
ンダ人か他の白人かの区別はできないのだから、オランダ人でなくとも白人はみな同類に
扱われたにちがいあるまい。更に外見が白人であるなら、プリブミ混血者も同じ扱いを受
けたはずだ。

オランダへ引き揚げていくIndoたちの大きな波は1950年代から60年代前半にかけて
がピークになり、1945年から65年までのオルラ期にインドネシアを引き揚げてオラ
ンダに移住したひとびとは30万人近くに達し、引揚者の波が何回も両国の間を走った。


自らインドネシアを捨てた者もあれば、オランダのパスポートを持っていたりオランダ人
の手先と見られていたためにインドネシアを追われた者も混在しているインドネシア人プ
リブミ引揚者たちがアムステルダムに到着したとき、かれらは船から臨時収容キャンプに
移されて医療検査を受けた。そのあと、全国に分散させられて住居を与えられ、そこに住
んだ。オランダの冬の寒さに耐えられず、死亡した者たちもあった。

アムステルダム港で引揚船から降りた人々の中に、白いクバヤ姿のアンボン女性もいたし、
クルドゥンkerudungで頭を覆って幸福の笑みを満面に浮かべた女性の姿もあった。この女
性は先にオランダに移住した家族と一緒に暮らすために後追いでやって来たとのことだ。
オランダ政府は引揚者に対して、インドネシアのことは忘れて早くオランダに同化するよ
うにという方針をもって臨んだが、そう簡単に行くものでもなかった。引揚者たちの心中
には恩讐が、望郷や憎悪の怨念が深くこびりついていた。

1958年から1962年までの間にたくさんのインドネシア人プリブミがオランダに移
住した。このプリブミの多くはアンボン人であり、たいていがKNILに所属していた軍
人兵士たちとその家族だった。

生まれ故郷に持っていたあらゆるものと引き離されて、気候も民族性もまったく異なる北
の国へやってきたかれらは、生き延びるためにたいへんな苦労を余儀なくされた。北ブラ
バント州ニステルローデのファンヘットレイクに住むアンボン女性は、オランダに来た当
時を回想する。
「わたしはアンボン人移住者の最初のグループで、スラバヤからアムステルダムに195
1年に来ました。わたしらは何年もバラック住まいを余儀なくされました。生活はとても
ひどいものでした。故郷にいれば、こんなことにはならない。インドネシア共和国がわた
しらをこんな目に会わせたんだと言ってインドネシアを憎む人たちも少なからずいました。
そういうひとたちが集まってオランダに南マルク共和国Republik Maluku Selatan政府を
作ったんです。」


RMSは最初、オランダ国民から同情を集めた。毎年8月17日のインドネシア独立記念
日と4月20日のRMS創設記念日にインドネシア大使館の前でデモを行うだけだったも
のが、そのうちに過激化した。1966年にインドネシア大使館職員18人の拉致事件、
1970年8月にウィスマドゥタ占拠事件、1975年にアムステルダム総領事館で人質
事件などを起こして、オランダ国民からの同情と支持は色あせて行った。決定打になった
のは、ウェイスターでの鉄道列車乗客人質事件であり、アッセン⇒フロニンゲン鉄道列車
乗っ取り事件であり、学生生徒をメインにした110人もの人質事件だった。それらの1
970年代後半に起こった凶悪事件はオランダ市民に向けられたものであり、自分たちが
オランダ人からも見放されるようになった状況にかれらがどれだけ焦りと不満と怒りを抱
いたかを示すバロメータと見ることができる。同情と支持があればこそ、経済的支援も付
いてきていたのだから。[ 続く ]