「オランダ人引揚者の苦難(3)」(2020年12月11日)

オランダのマルク系市民層も、RMSはもう鳴かず飛ばずになっていると見ている人が多
い。マルク系市民はアンボン人と東南マルク人に大別される。RMSを担いだのは主にア
ンボン人で、東南マルク人は深入りする者があまり出ず、ニュートラルな態度を取る者が
マジョリティだったそうだ。既に世代交代が進んだいま、シンパもまだいて不思議はない
ものの、当初の活動家たちの第三世代はもう自分たちとは別世界の問題としているように
見える。アンボン人であれ、東南マルク人であれ、それは共通現象になっている。


1950年代にオランダに移住して来た祖父を持つダニエルは、政治運動には全く関心が
ない、と言う。ダニエルの祖父は東南マルクのケイKei島出身者で、KNILの兵士だっ
た。祖母はスンダ人だ。その祖父は望郷の思い止むに止まれず、1991年に故郷に帰っ
てから数年を経て故郷の土になった。オランダ生まれの二世であるダニエルの父も、イン
ドネシアのマルクには精神的な絆を感じていると言う。しかし三世にはもうそんなものは
ない。「自分の息子ダニエルはもうオランダの子供だ。」と精神傾向にかなりの隔たりが
あることを父親は感じている。

ダニエルは祖父母の故郷にもう何回も観光旅行で訪れ、向こうに住んでいる親族にも会っ
ているが、マルク語もインドネシア語もできない。かれが会話できるのはオランダ語と英
語だ。インドネシアへ行くのはホリデーでしかない。マルクもインドネシアも、ダニエル
という人間を構成する核要素にはならないようだ。


RMSは元々、1950年4月25日にアンボンで始まった。インドネシア共和国からパ
プアとアンボンを外すことに努めていたオランダは、KNILを中心にする親オランダ派
のアンボン人が行うその動きを裏から支援した。インドネシア共和国がその動きを抑えつ
けたとき、オランダはRMSを担いだアンボン人をオランダに移住させた。こうしてアン
ボン人はオランダに亡命政権としてのRMSを発足させたというのがその歴史である。

どうしてオランダはアンボンにそこまで肩入れをしたのか?それはVOCの歴史をたどっ
てみれば明らかだろう。VOCが最初にアジアで現地総支配人の本拠地を設けたのがアン
ボンだったのだから。VOCがポルトガル人からアンボンを奪い、クーンがジャカトラを
奪取してそこに総支配人本拠地を移すまで、VOC総督館はアンボンにあったのである。

ヌサンタラの各地にどれだけVOCやオランダ植民地政庁がネットワークを拡大しようと
も、オランダ人とアンボン人のつながりの古さと密度に匹敵する種族はほかになかったの
ではあるまいか。

アンボン人が他のヌサンタラ住民から往々にして黒いオランダ人Belanda hitamと呼ばれ
たのは事実だ。元々オランダ人が黒いオランダ人Zwarte Hollandersと呼んだのはアフリ
カで徴用されたKNILに勤務するアフリカ人兵士でありアンボン人ではなかったが、ヌ
サンタラのプリブミたちは自分たちに銃を向け、剣で斬りかかって来るアンボン人兵士を
も区別しないでそう呼んだ。

ポルトガル時代に始まったヨーロッパ人との混血はオランダ時代にも継続し、ポルトガル
時代のカトリック信仰がオランダ人によってプロテスタントに変えられ、オランダ人の市
行政はきわめて協力的なプリブミ混血者の参加によって順調に進展し、異民族への敵対意
識よりもはるかに強い親族関係の枠組みの中で親近感が醸成されたために、アンボン人が
ヌサンタラの他種族を見る眼はオランダ人の視点の方に近寄っていただろうことは想像に
余りある。

ヨーロッパ系の名前を持ち、混血の影響からかがっしりした体躯の多いアンボン人がオラ
ンダ人の手足になってその現地支配に協力しているありさまからヌサンタラのプリブミは、
肌が黒いだけで本質的には白人侵略者という印象を強く受けたのではないだろうか。クー
ンがジャヤカルタを滅ぼしたとき、数千人というVOC兵力の大半を占めていたのがアン
ボン人であったことを忘れてはならない。[ 続く ]