「オランダ人引揚者の苦難(4)」(2020年12月14日)

日本の敗戦でジャワ島の日本軍政が終わりを迎えたとき、イシェは4歳だった。日本軍が
ジャワ島を占領したとき、曾々祖父の代からプリブミと混血していたピプレンボシュ家は
抑留者収容キャンプに入れられることを免れ、それまで住んでいたジャカルタからランカ
スビトゥンに引っ越した。父はサラティガの出身、母はチマヒの出身で、どちらも曾祖父
の時代からプリブミの血が混じったインドIndo(オランダ語Indo-Europeanの略語)と呼
ばれる階層のひとびとだった。

日本軍が去り、インドネシア共和国独立宣言がなされ、各地でプリブミ武装青年団がオラ
ンダ人粛清の動きを始めた。混血とはいえ、白人の姿かたちをしていたイシェの父親はそ
のときに殺害された。イシェは母親から聞いたそのときの状況をいまだに覚えている。
「インドネシア人に対する怨恨は持っていません。戦争だったのだから、それは誰にも起
こり得たことであり、仕方なかったのです。父がランカスビトゥンのどこに埋められたの
か、ピプレンボシュ家としてそれが唯一知りたいことなのです。」かの女はそう語った。

両親と兄妹の4人で暮らしていたランカスビトゥンから、父を失った一家はバンドンの母
の実家に移った。祖父は鉄道職員であり、決して裕福な家庭でなかったため、突然大きく
なった世帯の切り盛りがたいへんになった。イシェの幼児期の記憶が貧困の中にあったこ
とは、時代の趨勢がそうであったとはいえ、もっと深い状態に彩られていたように思われ
る。

金髪・碧眼・がっしりした体躯と白い肌の姿をしていても、肉体と精神の奥に蓄えられた
文化志向がプリブミに近いIndoは大勢いた。かれらの日常生活を見るなら、話す言葉、食
べ物、生活態度の端々にプリブミの行動を見出すことも頻繁だった。ましてや熱帯生まれ
のかれらの間では、父方の祖国へ行ったことのある人間の方が稀だったのだ。

イシェの一家もそのひとつだった。普段の生活の中にオランダ人というアイデンティティ
が漂っている家ではなかったようだ。家の中ではオランダ語が頻繁に用いられ、社会活動
や自分たちが所属する社会階層との世の中での接触にオランダ語が使われるのは当然だっ
たが、自己のアイデンティティの半分を形成しているプリブミの部分を抑圧するようなこ
とは爪の先ほどもなかった。

1953年、イシェの一家はオランダ国籍を取得してオランダに移った。オランダ人への
社会的敵視が居心地の悪さと、そしてもっと重要な経済活動の困難をもたらしているとき、
イシェの兄の大学教育問題がもうひとつからんでいたため、一家は早々とオランダ引揚の
結論を出した。そうは言っても、オランダとのつながりなど一家のだれひとりとして持っ
ているわけではない。期待半分不安半分で一家はオランダに移り住んだ。

オランダ政府はこの一家をオランダ北部のアッセンAssenの町に住まわせて小さい家を一
軒与えた。隣人たちはかれらを同朋扱いしてくれなかった。未開のインドネシアから来た
教養がなく文明的作法を知らない野蛮人に近い者と見なし、皿からナイフとフォークを使
って食べることなどできないと思っていた。オランダ語が話せるのに驚いた者すらいた。
たいていがヨーロッパ人に比べて肌の色が暗いため、子供たちはピーナツ子とからかわれ、
蔑まれた。混血児の肌の色がピーナツの皮の色を連想させたようだ。

インドネシアでコメを食べていた一家は、ジャガイモの食事に慣れなければならなかった。
「コメが食べれたのは週に一回だけでした。コメがあったらみんな大喜びで、すぐにナシ
ゴレンを作って、みんなで一緒に食べました。ナシゴレンを食べているときは、みんなし
あわせでした。」

イシェは成人してから結婚し、子供をふたり作り、ふたりの子供たちもそれぞれがふたり
の子供を設けたので、今では四人の孫を持つ祖母になっている。[ 続く ]