「オランダ人引揚者の苦難(5)」(2020年12月15日)

引揚者の孫がその祖母を特別に慕ったケースもあった。96歳で亡くなった引揚者の祖母
をしのんで当時43歳の女性写真家アンネリース・ダーメンはフォトエッセイを発表した。
かの女はダーメン造船グループのシェアホルダーだ。

自分が祖母に対して持っているすべての思い出と記憶と体験と印象を、それを通してイン
ドネシアで生まれた祖母という人物像をそこに再現しようとして、アンネリースはその写
真集を作った。祖母は存命中にアンネリースを可愛がり、自分の体験した人生、生まれた
土地、懐かしいインドネシアの風物の話をよく聞かせてくれた。

空気の中に花や果実の香りが混じり、色とりどりの花が咲き乱れ、さまざまな味覚の果実
があふれるほど手に入り、種々の鳥がいろんな声でさえずり、涼風が木々の枝葉を絶えず
ゆらし、明るい青空を白い雲が流れて行く。それはあたかも天国の話のような印象を幼い
アンネリースにもたらした。祖母の故郷って、まるで地上にできた天国みたい。
「今思えば、祖母はきっと自分が生まれた土地であるインドネシアでずっと暮らしたかっ
たんだという気がします。オランダに移住することは祖母にとって、たいへん苦しい決断
だったことでしょう。インドネシアに残るかオランダに移るかという立場に置かれたこと
に祖母はとても苦しんだと思います。客観的に当時の情勢はそんな選択を許すようなもの
でなく、どうしなければならないのかは既に定まっていたように見えるので、選択の余地
などなかったとは思うのですが。そんな時代が祖母を襲ったことに、わたしは悲しみを感
じます。」

インドネシアからの引揚者の多くがオランダでの生活に適応するのにたいへんな苦労をし
たことは、誰もが知っている。引揚者の多くはオランダに来たくて来たひとびとではなか
ったのだから。アンネリースは続ける。
「わたしの祖母もオランダの生活に慣れるのにたいへん苦労したようでした。祖母はオラ
ンダの食べ物が嫌いでしたし、冬の寒さも祖母を苦しめたようです。オランダの生活に慣
れるよう努力しながらも、祖母は死ぬまで生まれ故郷に憧れを抱き続けていました。自分
が生まれ育った土地、天国のようなインドネシアに。」


たとえ血統がどうであれ、人間は自分が生まれ育った土地の文化と自然をそのアイデンテ
ィティの中に吸収してしまう。幼児が生きることを学ぶ体験学習プロセスの背景としてそ
れが存在しているのだから、それが学習成果の中に溶け込んでくるのは当たり前なのだ。

ましてや自分の血の中にふたつの異なる民族が混じり合うとき、そのふたつの異なるもの
を調和させながら、混血者は生きることになる。自分の半分はその一方であり、もう半分
は別の一方なのだ。それを調和させなければ精神の平衡は保たれなくなる。

ところが自分のアイデンティティの半分、いや文化傾向から言うならそれ以上の親近感を
抱いているプリブミから敵視され、困難を与えられ、故郷と感じている土地からIndoたち
は追い出されたのである。わたしの半分はあなた方の同胞なのだと叫んでみたところで、
残りの半分が敵なのだからおまえは敵に属しているのだと言われたらどう説得すればよい
のだろうか。

差別主義者にとって、人間が他人を差別する理由はいくらでも作り出せる。理由があるか
ら差別するのでなく、差別したいから理由を作り出すのだ。ヌサンタラのプリブミに敵視
されたかれらを、オランダ原住民も差別した。オランダ本国人はIndoたちを同朋扱いしな
かったのである。こうもりにされたIndoたちを憤懣が包まなかったはずがない。

オランダ政府がいくら同化せよと言っても、オランダ人の下部階層として同化することな
どできはしない。Indoたちの中にそんな状況への反抗精神が勃興するのを避けることはで
きなかった。かれらは「忘れろ」と政府が言うインドネシアを思い出すためにさまざまな
活動を始めた。インドネシア人がよく言うbenci tapi rinduである。[ 続く ]