「シンコン民族、テンペ民族(1)」(2020年12月14日)

キャッサバはインドネシア語でシンコンsingkongあるいはウビカユubi kayu、またクテラ
ポホンketela pohonとも言う。シンコンという名前は福建語の樹葛に由来しているとイン
ドネシア語Wiktionaryに記されているが音はまったく似ていないから、樹葛がインドネシ
ア語のウビカユやクテラポホンに翻訳されたことを言っているようだ。その類語に木薯が
あって、これはもろにウビカユとなる。シンコンという音の響きは中国語風だが、果たし
て本当はどうだったのか?おまけにウビカユやクテラポホンが中国語からの翻訳語である
なら、華人がヌサンタラに持って来たのではないような話になっているのに、どうして名
称を中国語が仲介したのかが謎になる。茶tehのような裏話がそこに付着しているのだろ
うか?

クテラはある種の芋類の名称で、クテラポホンはウビカユと同様に木にできる芋という意
味を表している。
インドネシアの炭水化物摂取源としてシンコンはコメ・トウモロコシに次ぐ第三位の地位
を占めている。世界のキャッサバ生産国トップ4はナイジェリア・ブラジル・タイ・イン
ドネシアだそうだ。


キャッサバは元々中南米が原産地で、最初はポルトガル人がマルク地方にもたらした。し
かしヌサンタラの他地方にはあまり広まらず、全国展開がなされたのはオランダ人が18
35年にインドネシアに持ち込んで以来のようだ。オランダ東インド植民地政庁はインド
ネシアの大地で育てたキャッサバをヨーロッパに輸出し、ヨーロッパでは安物ウイスキー
の原料に使われた。同時にオランダ人は東インド国内でもキャッサバを下層労働者階級の
食糧として扱ったために、シンコンはいまだに貧困者の食べ物というイメージに塗りつぶ
されている。

植民地支配者の人種差別政策によってプリブミの子供はanak singkongと呼ばれた。もち
ろんそれは侮蔑語だ。反対にヨーロッパ人の子供はanak kejuと呼ばれた。社会ステータ
スを区分するのに食べ物を使ったから、金持ちプリブミの家庭ではシンコンなどに見向き
もせず、高いチーズを努めて食べるようにし、社会的見栄を誇示した。わたし個人も19
70年代のジャカルタで老人の口から出されたanak keju - anak singkongという対語を
耳にしている。もちろん、その老人の家庭ではシンコンが普通に食されていたのだが。

インドネシアではシンコンが貧困の象徴であり、低階層庶民にとっての米の代替品という
イメージが強かったのは歴史が作り出した社会的文化産物だったわけだが、ならばもっぱ
ら劣等的イメージで塗りつぶされていたかと言うと、そう単純でもない。インドネシア共
和国独立宣言者である初代スカルノ大統領の有名な演説の中にこんなものがある。
「われわれはテンペ民族でなく、偉大な民族なのだ。乞食ではない、物乞いなどしない。
ましてや、あれやこれやといろんな条件を付けて来られた援助などであれば。たとえシン
コンしか食べられなくても自由独立である方がいい。ビフテキを食べられても奴隷になる
よりはずっといい。」

これではシンコンの方がテンペより上位に置かれているように見えないこともない。スカ
ルノはインドネシア民族がテンペのようになるのをたいそう嫌ったようだ。こんな演説も
ある。
「われわれは勤勉刻苦の民族であり、テンペ民族でもクーリー民族でもない。理想を護る
ために艱難辛苦を厭わない民族なのだ。」


テンペtempeという言葉がインドネシアの独立闘争期にひ弱でネガティブなイメージを象
徴するものとして使われていたことは確かだ。泣き言を言う、軟弱、すぐ諦める、そうい
った精神のあり方を称してmental tempeという言い方が人口に膾炙した。テンペ部隊、テ
ンペ級の若者、等の表現も使われた。

テンペという食品は16世紀ごろから、ヌサンタラ住民の日常食品として使われて来たも
のだ。下流層庶民がだれでも食べている食品という意味では、威厳に欠けているものとい
うイメージも外れていないだろう。

国民に檄を飛ばすためにスカルノ大統領はテンペを軟弱派代表選手に使ったものの、大統
領宮殿ではテンペゴレンtempe gorengの姿が見えない日は一日とてなかったという話にな
っている。宮殿の食卓には必ずシンコン葉のグライgulaiとテンペゴレンが載っており、
それはスカルノ大統領の好物でもあったそうだ。[ 続く ]