「オランダ人引揚者の苦難(終)」(2020年12月16日)

そのひとつがインドネシア夜市Pasar Malamの催しだった。1959年に初めてこの催し
が行なわれ、Indoインテリ層の著名人が作ったIndies Cultural Circleがそれを主催した。

かれらはバタヴィアで行われていたパサルガンビルPasar Gambir(今のジャカルタフェア)
の後継を意気込んで、それを行った。初回は文化行事としての色彩の強い会合や討論会、
会食、音楽演奏などがプログラムのメインを占めたが、名前通りのインドネシアに関連す
る物品の販売も行われた。

この催しにしばしば登場したバンドはティ―ルマンブラザーズで、1933年スラバヤ生
まれのレギー、1934年ジュンブル生まれのポントン、1936年マカッサル生まれの
アンディ、1938年スラバヤ生まれのルール―、そしてジェーンという全員が実の兄妹
で構成されているグループだった。この家系はティモールを本拠にしており、父親はKN
ILの将校で、各地を転々としたようだ。兄妹は1945年にスラバヤでバンド活動を開
始したが、そのときはティモールリズムブラザーズというバンド名だった。かれらは19
57年にオランダに移住した。

ティ―ルマンブラザーズはオランダのポップ=ロックシーンの先駆的存在となり、200
5年に政府がその業績を称えて表彰し、女王から勲章を得た。ベアトリクス女王はその前
の2003年に開かれたパサルマラムブサールPasar Malam Besarの開会式に出席してオ
ープニングを宣している。Indo層の長期に渡ったオランダに対する反抗がこうして実を結
び、オランダの国内にIndo階層の文化とその存在が公式に認められる結末に至った、とそ
れらのできごとを評している見解もある。


オランダの国内に大規模なインドネシアからの引揚者集団社会ができたことで、インドネ
シア文化のオランダ地元文化への浸透も起こった。まず代表に上げられるのは言葉だろう。
Indo文化で普通に使われているムラユ語インドネシア語の単語がおよそ5百語ほどオラン
ダ語の語彙になった。現在インドネシア語標準語彙になっているオランダ語源の単語は数
千にのぼり、歴史と立場の差がそこに反映されている。

次に来るのは食べ物だろうか。krupukやkecapなどは言葉と現物がオランダの日常生活の
中にある。ナシゴレンは都市部で一般的な食品になっており、オランダにあるインドネシ
ア料理のレストランは1千軒を超えている。


人間の属性を理由にして人間に差別と蔑視を勧めて来た民族主義は、複数の民族的属性を
自己の内面に持つ人間の増加によって完璧に打ちのめされ、乗り越えられる日が早晩やっ
てくることだろう。民族という区別概念に依拠した富や繁栄とそのための支配被支配がよ
り多くの人間の幸福を生み出せないのなら、それは人類の歴史が通り過ぎていく一時期の
ものとしての価値しか持たないにちがいあるまい。この先、何百年何千年後の歴史書に、
それが歴史の一過程として物語られるのだろうか?

民族主義というイデオロギーそのものははるか昔に過去のものとなっているが、イデオロ
ギーとしての民族主義が云々されるはるか以前からその精神は人類をからめとって来たし、
その精神をいまだにたっぷりと蓄えている人間たちが今この瞬間にも地上にあふれている。
奇妙なことに、そんな自分を民族主義者と思わない者が大半を占めているのは、その言葉
がイデオロギーとしてしかとらえられていないからだろう。

民族というのはその名の通り、人類というユニバーサルな概念にとっての部分でしかない
のだから、自分の所属セクションを大事にしようという考え方はユニバーサルな価値を持
ち得ないのが当たり前だ。わたしの脳裏には、かれらの存在の基盤の一部と化している狭
隘な民族主義精神の抜け殻がこの地上から永遠の闇の滝つぼに向かって流れ落ちて行く情
景が映っている。地球上で人種混血が進み、多重言語者・多重文化生活者が増えているい
ま、民族という概念は必然的に乗り越えられるべきものになるとしか思えない。

民族国家が戦争という方式で地上の覇を競った時代は過ぎ去っても、人間が民族国家に自
分を縛り付けて方式の異なる覇権競争を行いながら憎悪と差別や蔑視をいつまでも振り撒
き続けているのなら、その本質に戦争時代とたいした違いがあるとは思えない。オランダ
に引き揚げたIndoたちが味わった苦渋が真の過ぎ去った歴史エピソードになるのは、いつ
の日なのか?[ 完 ]