「インドネシア浮き輪説」(2020年12月17日)

ライター: ディポヌゴロ大学法社会学名誉教授、サチプト・ラハルジョ
ソース: 2009年4月18日付けコンパス紙 "Masa Lalu Indonesia-Belanda"   

Waardoor Java blijven kan de kurk waarop Nederland drijft. (1829)
ネーデルランドが浮き続けるためのコルクにジャワをしておけ

最近行われたG−20会議で富裕国から発展途上国への援助がまた問題になった。200
9年のいま、インドネシアとオランダの姿は誰もが現代という枠の中でそれを見ている。
われわれの眼前にあるものがそれなのだから、それはもちろん当然のことだと言える。オ
ランダは豊かな工業国であり、インドネシアは貧困で援助を受けている発展途上国といっ
たところがその姿だ。だが、過去から常にそうだったのではない、ということを知ってい
るひとは少ない。

もしも19世紀の状況を描き出してみるなら、インドネシア(東インド)がなければオラ
ンダは現在のオランダになることができず、はるか昔に破産して世界地図から消えていた
かもしれない、という極論さえ可能なように思われる。当時、破産寸前のオランダにとっ
てインドネシアは救いの神だったのである。

この論説を今書いているのは残念なことだ。何世紀か前に書かれていれば、当時の現実に
マッチしていたから、はるかに強い反響が沸き上がったことだろう。インドネシアは昔オ
ランダの救いの神だったのだということをいまごろ語っても、ひとはただ苦笑するだけか
もしれない。なにしろオランダは豊かで他国に援助を与える国であり、インドネシアはそ
の反対だという現実が目の前にあるのだから。

インドネシアは本当に貧困で悲惨な民族だったのでなく、歴史の一時期においてある民族
を破滅から救ったほどの器量を持った民族だったのだということを物語って、少しでもわ
が民族を慰撫したいと念願して、わたしはこの論説を書いている。

< 栽培制度 >
博士論文とは検証のなされた作為のない文筆作品である。その意味において、わたしはオ
ランダで作られた博士論文の一節を上に取り上げた。「社会における審判 - 18世紀末
から20世紀までのオランダの政治・社会・経済制度における正邪判定の場と機能に関す
る諸見解の研究」と題する、トゥン・ ジャスパスが1980年に書いた論文だ。

破産国家に向かっていたオランダの当時の社会経済状況がいかに混乱の極みだったかとい
うことをかれは、「財務状況は強い不安に包まれ、商業センターだったアムステルダムの
地位は没落し、云々・・・」と書いている。

その状況が起こったのは、工業化時代の波に襲われたオランダが、政治・社会・経済制度
の再編成を強いられたためだ。その点においてオランダはイギリスやドイツなどの隣国よ
りも鈍であった。オランダはその状況への対応策として東インド(ジャワ)に目を向け、
豊かな植民地からできるかぎり多くの利益を搾り出そうと考えた。

こうしてジャワは、世界に輸出することで干上がりかかっていたオランダの国庫に巨利を
もたらす農産物のありあふれる豊かな経済源に一変した。ファン・デン・ボシュ総督の指
揮下に1829年、栽培制度Kultuurstelselが開始されたのである。それは、行政がジャ
ワ農民に国際市場で需要の大きい熱帯性作物の栽培を義務付け、強制する形を取った一種
の官営農業だった。

伝統的にコメだけを栽培していたジャワ農民は、コーヒー・サトウキビ・藍などの栽培を
強制されたあげく、その強いられた変化によって、飢餓の発生という深刻な結果に直面す
ることになった。

切羽詰まった状況の中で国家権力はビジネスと搾取を結び合わせたのである。搾取された
民族がどうなるのかは二の次であり、もっとも重要なのはオランダという国が破産から免
れることだった。強制栽培制度は成功裡に続けられて、オランダの国庫に巨額の富が流れ
込んで来た。オランダは強制栽培制度に、言い換えればインドネシアの富の搾取に依存し
てしまった。栽培制度こそがオランダを破産から救う唯一の信頼できるシステムにされた
のである。そのころに、頭書に書いた「ジャワはコルクだ」という修辞が語られた。

同じように、「インドネシアを失うことは、オランダに災厄が訪れることだ」という警句
も語られた。今、それらはすべて過去のできごとだと言いたければ言うがよい。しかし当
時の状況はオランダにとって本当に肝を冷やすほどの状況だったのであり、インドネシア
はそんな破産寸前のオランダが背にぶら下がるのを実に気前よく支えてやったのである。

< 落ち込んだ民族 >
富が流れ込んでくるにつれて、破産しかかっていたオランダの社会と経済は立ち直り、威
勢を盛り返した。中央市場としてのアムステルダム港は沈没から免れた。続いて様々な、
徴税の軽減、鉄道や運河などのインフラ改善、教育拡大、等々の開発が行われた。そのす
べては、インドネシアの富が搾取されてオランダに流れ込んだことの恩恵だったのだ。

オランダの繁栄と栄光の復活がジャワ島農民の犠牲の上に成立したことは実に痛ましいで
きごとだった。ジャワ農民は伝統的農業から国際市場の商品作物に栽培を転換し、深刻な
飢餓を迎え入れなければならなかった。自家消費用のコメ栽培から大規模な輸出商品作物
栽培への転換がかれらに打撃を与えたのだ。

現代インドネシアに関するイメージは、両手を上に挙げてオランダを含む諸外国からの援
助を乞うている落ち込んだ民族の姿になっている。しかしわが民族よ、そんなに悲しまな
くてもよいのだ。歴史にはその英雄的な功績が刻み込まれている。破産の穴に落ち込みか
かったひとつの民族を助け出した輝かしい功績が。