「植民地文明(3)」(2020年12月23日)

VOC時代以来3百数十年の歴史を持つオランダの東インドとの関わりの中で、蘭領東イ
ンドが西洋国家の植民地として華麗な容姿を示したのが1900年から1942年までの
時代だった。ヨーロッパの不況も手伝って、たくさんのヨーロッパ人が東インドにやって
来た。かれらは都市に集まってヨーロッパ人社会を作り、プリブミをコミュニティから排
除して各家庭の裏に隠し、あたかもヨーロッパの都市と見まがうばかりの植民地都市を建
設してヨーロッパ先進都市との間にたいして文化時差のない暮らしを謳歌した。

ヨーロッパとアジアを結ぶ郵便船が活発に海路を往来し、文物と情報を、そして人間を短
期間で植民地にもたらすことができるようになった。特に有名なものはフランスのマルセ
イユを一日おきに出発するMessageries Maritimesで、フレンチメールと呼ばれたこのシ
ステムはアジアのフランス植民地から中国〜日本までをカバーし、シンガポールにも立ち
寄ったためにバタヴィア⇔シンガポール航路の船が中継港から容易にバタヴィアまでそれ
を運んできた。

イギリス郵便船も毎週イギリスとアジアの植民地間を往来した。Peninsular & Oriental 
Companyの船がシンガポールまでやってきて、ジャワに向かう人々、ジャワから来た人々
を乗降させた。オランダから東インドに向かう船は毎月三船がアムステルダム港を出発し
た。船はコロンボに寄港してからスマトラ西岸を下ってパダンのエンマハーフェンに寄り、
そこからバタヴィアに向かった。


東インドにやってきたヨーロッパ人の目的・意図・理想・モラルはさまざまだった。その
中には、橋を作り、灌漑システムを設け、原住民教育に携わり、病院や医療分野での貢献
を目指した理想主義的なひとびともいた。この種のひとびとは、未開の東インドで意味の
あるなにごとかをなしたという達成感を抱いた者が多かったようだ。その一方、銀行口座
が目標金額を突破したことで、心地よい達成感を得て帰国した別のひとびとも少なからず
いたにちがいあるまい。

ヨーロッパ人の移住が活発化したその時代の東インドで、20世紀初頭からオランダ本国
は既に植民地への倫理政策なるものを開始しており、東インドプリブミの文明化が政治ス
ローガンになっていた。それに伴って起こって来たのがプリブミ女子教育の振興アイデア
であり、その役割への期待がヨーロッパ人女性たちに向けられた。

特にオランダ女性に向けられた崇高な活動への期待は強かった。そうもてはやされた現実
がある一方で、家父長的な植民地行政の中での白人女性たちはマージナルな地位から一歩
も踏み出すことができず、至るところに張られた行政の壁と倫理観が彼女たちの動きを阻
害した。結局それは馬鹿げた矛盾以外の何ものにもならなかったようだ。


女性についてもっと言うなら、東インドに有名なニャイ制度がある。VOCの駐在員にな
ったオランダをはじめとするヨーロッパ諸国人がプリブミ女奴隷あるいは召使いを夜のベ
ッドの友にすることから始まった制度であり、ニャイになった女は新参ヨーロッパ人の生
き字引となり、東インドの言語・風習・諸知識の源泉となって男たちの公私にわたるアシ
スタントを務めた。「東インドに渡ったかれは使用人と一緒に暮らしていますよ。」とい
う消息の言葉が意味する実態はオランダ本国人にとって、知る人ぞ知るセリフだった。
このニャイの詳細については拙作「ニャイ」〜植民地の性支配
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libnyai.html
をご参照ください。

ヨーロッパ文明における非倫理性の見本のようなこの風習は、きわめてメリットが大きか
ったために東インドにおけるヨーロッパ人の暮らしを彩り続けた。もちろんヨーロッパ人
コロニーの中に反対者批判者がいなかったわけではないものの、植民地行政がその肩を持
っている間、その批判などいくら言おうがごまめの歯ぎしりにしかならない。

婚姻制度を前提に社会が営まれているヨーロッパ文明において、その風習が妥当な社会制
度を蝕んで行くことへの警戒を説く声が大きさと強さを増し、マキアヴェリストがそのリ
スクに目を開いたとき、ニャイの風習は終焉が確定した。それが起こったのが1900〜
1942年の時代である。[ 続く ]